加藤のメモ的日記
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2012年06月08日(金) 山本五十六

なぜ日本は真珠湾で大戦果をあげ、ミッドウェーで大敗北を喫したのか。

真珠湾で戦った人間は私の知る限り、もう全国で1人は2人しかいません。真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の両方を戦って現在も生き残っているのは、私一人のはずです。人生は偶然でどう変わるかわからない。私はミッドウェーで負傷して、しばらく前線から離れていたんですが、その間、仲間たちはどんどん死にました。もし、ミッドウェーで怪我をしていなかったら、私も間違いなく死んでいた。それがこうして今も生きているんだから、運命は何で決まるのか本当に不思議だと、しみじみ思います。こう振り返るのは、かって旧日本海軍のパイロットだった前田武さん(90歳)だ。

冬の太平洋はひどく荒れます。当時、一般の商船は高波や強風で沈没などの恐れがあるため、運航が禁止されていました。日本がそんなところを通ってハワイを襲うとは米軍は思いもしなかったでしょう。そこを衝いた山本五十六・連合会隊司令長官の一世一代の奇襲作戦だったのです。実際ハワイまでの暴風雨はすさまじく、食事もロープで吊るしたバケットにご飯を入れ、その上におかずを載せて、立ったままかき込みました。数メートルの高波で艦が揺れ、テーブルに食器を置けないんです。小さな駆逐艦のデッキからは乗務員が何人も風で飛ばされ、海に転落して死んでいきました。皆「戦死」扱いになりましたが……。

艦内では、仲間と話らしい話もしませんでした。私も遺書を書いたりしてね。ただ、攻撃の2日前の12月6日の晩は騒ぎました。私たち飛行隊の送別会で、「階級は関係なく、無礼講で好きなだけ飲んでくれ」とお達しがあり、「最後の酒だ」とさんざん飲みました。気に食わない甲板下士官たちにビールをぶっかけたりもしましたよ。「艦長が無礼講だとおっしゃったんだ」と言ってね。(笑)攻撃の12月8日の朝は、「生きて帰れないだろう」と思いつつ、第一次攻撃隊として飛び立ちました。真珠湾に向かう前も、「敵に発見されるのではないか」という不安と「俺の命もこれで終わりだ」という悲壮な覚悟で頭が一杯でした。

山本さんの別れの挨拶

私の目標は米国太平洋艦隊の旗艦「ウェストバージニア」。800kgの魚雷をこれに発射して撃沈するのが課せられた使命でした。真珠湾に突撃すると、米軍からの反撃で私の機も右の翼に被弾しましたが、発射した魚雷はウェストバージニアに命中し、爆発が起こったのを見て思わず「おおっ」と叫びました。結局、私たちが放った7発の魚雷を受けて、同艦は沈みました。加賀に帰艦した時は、本当にうれしかった。何と言っても敵の旗艦、日本艦隊で言うと大和を沈めたようなものだからね。でも、私の機を含め、加賀を出撃した雷撃機12機のうち、5機が帰らなかった。朝食を共にした仲間が昼食の時にいない……。あの辛い気持ちは忘れられません。

真珠湾の太平洋艦隊はほぼ全滅。この劇的な勝利で、作戦を立案、実行した山本五十六さんは国民的な英雄になりました。一般社会だけでなく海軍内部でも、山本さんは私たち現場のものに信頼され、尊敬されていました。海軍兵学校を出たというだけで、能力もないのに威張り散らして嫌われている将官もいましたが、それと正反対の人でした。

私も山本さんの温かい人柄に触れたことがあります。ミッドウェーで負傷して、呉の海軍病院に入院していたある日、わざわざ見舞いに来て下さったんです。病室の私の枕元に、使命と「加賀」という艦名が書いてあったので、それを見てつかつかとちかずいてこられ、「いろいろご苦労だった」と声をかけてくれました。連合艦隊司令長官が直々に見舞ってくださり、労をねぎらってくれたのですから、当時21歳の私としては感激するしかありませんでした。

それから数ヵ月後私がラバウルに配属されてしばらく経ったとき、また山本さんの肉声に接しました。当時、日本は悲惨な戦闘を経てガダルカナルから撤退し、少しずつ米軍に押されて劣勢になりつつありました。そんな‘43年4月、突然ラバウルに来られたのです。私たちは集められて訓示を聞きました。「自分はこれからもっと南のオーストラリアに近い前線を視察する。皆も頑張ってほしい」といった趣旨の話でした。「なぜ長官がそんな最前線に行くのだろう。危険ではないのか」と内心思ったことを覚えています。あれば別れの挨拶だったのでしょう。山本さんはその直後の4月18日、飛行機で視察に向かうところを、ブーゲンビル島上空で待ち伏せしていた米軍機に撃墜されて亡くなりました。

ミッドウェーで敗れた理由

私には、山本さんの戦死がある種の自殺に思われてなりません。普通、連合艦隊の司令長官が前線を視察するとなれば、護衛機が30機はつくのが当然で、実際にそれぐらい用意されていました。しかし、山本さんは頑なに「そんなにいらない。6機で十分だ」と言って、本当に6機だけになった。信じられないことです。また、私たちに訓示した時は、白い夏服を着ていました。あれは、白装束をまとって死ぬつもりだったのでしょう。訓示は「もう俺は逝く。さようなら」という遺言だったのです。偶然、私はそれを直接聞いたことになります。

そこまで山本さんを思い詰めさせたのは、戦局悪化の始まりとなったミッドウェー開戦の大敗北でしょう。しかし、私に言わせれば、ミッドウェーで藪得れた大きな原因は、南雲忠一・第一航空艦隊司令長官と、源田実・同航空参謀にある。簡単に言うと、現場を主導したこの二人が「米海軍の空母はミッドウェーの近海にはいない」と間違った思い込みをしてしまったんです。ところが空母はいた。山本さんは出撃前から「米国の空母は必ず出てくるから、赤城と加賀の雷撃隊には空母攻撃用の魚雷を降ろさせるな。爆弾に換装してはいけない」と言っていた。

南雲と源田は「空母はいない」と決めつけ、ミッドウェー基地を空襲するための爆弾に強引に付け替えさせた。その結果、攻撃は送れ、また魚雷に換装したりしているうちにて敵機に攻撃され、赤城も加賀も沈没してしまいました。要するに、山本さんの言うことを聞かなかった南雲と源田が、敗北の大きな要因となった。二人は駆逐艦に乗って帰り、山本さんにコテンパンに怒られたと聞いています。赤城、加賀、飛龍、蒼龍と正規の空母4隻を失った日本は、以後、少しづつ追い込まれていきます。山本さんはその責任を取って亡くなったのです。部下の失態を公に責めることもなく、全て自分の責任だとして死んだ。

なぜ間違えたのか

山本さんが南雲や源田を使い続けたのはどうかと思います。海軍には他にも人材がいたのだから。たとえば山口多門さん(第二航空司令官)など、当時から名指揮官として尊敬されていました。山口さんは真珠湾のとき、米艦隊だけでなく石油タンクやドックも攻撃すべきだと、乗っていた飛龍から何度も赤城に信号を送りました。加賀からも見えました。しかし、南雲と源田はそれを無視した。ミッドウェーでも、山本さんは敵の空母部隊を直ちに攻撃すべきだと主張しましたが、やはり二人に却下されました。

結局、赤城、加賀、蒼龍の3空母がやられた。山口さんは飛龍1隻で猛攻撃をかけ、空母「ヨークタウン」を沈めます。しかし、孤軍奮闘した飛龍もやがて沈没し、山口さんは退去せず艦と運命を共にした。こういう優れた指揮官ではなく、資質に乏しい者たちに現場を任せれば、勝てる戦争も勝てなくなります。ただ、山本さんがもともと米国との戦争に反対していたのは立派な見識だった。あんな強大な国と戦うのは容易ではないし、勝っても広い国土を占領できない。戦うことに何の利益もない。

私が米国の強大さを目の当たりにしたのは、戦争末期の‘45年5月のことです。沖縄の戦いで、私は夜間雷撃をやっていたのですが、ある晩、照明弾を落とすと、パッと真昼のように明るくなった目の前に、なんと真珠湾で沈めたはずのウェストバージニアがいた。「まさか!見間違いか?」と仰天しましたが、間違いなくウェストバージニアだった。要するに、米軍は真珠湾の浅い海底から同艦を引き上げて修理し、また使っていたわけです。私はがっくりして「この戦争に日本は負けるな」と思いました。戦争前に山本さんが言った通り、対米戦争は避けたほうがよかったのです。左腿の古傷の痛みは、ミッドウェーから69年経った今でもあります。一向に和らぐ様子はないし、長時間歩くとかなり痛くなる。でも、痛みを感じるたびに思うんです。「戦争は本当に悲惨なものだ」と、そして「平和な社会のなんとありがたいことか」と。


『週刊現代』


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