加藤のメモ的日記
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2012年04月15日(日) 大往生したいなら、病院に行くな

高齢者の80%が病院で亡くなる時代。だが、人生の終末を医者に任せて本当に大丈夫なのか。「自然死」と「在宅看取り」の第一人者の医師2人が理想の「最期」を考える。

医者の使命感が、患者を苦しめることも多い。

入院すると、1日で1年分の体力が落ちる。

75歳以上の人が入院すると、基本的に寝たきりにされてしまう。

苦しみながら延命するより、安らかな死を

昔の遺体は軽かったが、今の遺体は重い。点滴で必要以上の水分を入れられているからです。

今の医療は、死ぬことの邪魔をしている。

ガンだって痛まないなら放っておけばいいんです。

治療したために死期を早める場合もある。



●私も在宅医療に携わっていますから、今の病院での高齢者への医療に対して、同じ印象を持っています。先端医療が施され、成功したとしても従来の生活に戻れないことが、高齢者にはあります。心筋梗塞は治ったが、寝たきりになる。ガンの手術後、抗癌剤の副作用で味覚を失い、その後の人生を送るはめになる。入院医療によって、主病名以外の身体環境を悪化させることが多いんです。

○その通りですね。

●75歳以上の人だと、病院に入ると1日2%は体力が落ちます。普通の人なら1年で落ちる分がたった1日で落ちてしまう。寝たきりにされてしまうからです。

○ヘンにウロウロされて、ひっくり返ったりされたら困るからでしょう。

●ですから、病院は目的をはっきりさせて、入院治療は必要最小限にしないといけないと思っています。できるだけ早期にリハビリをしないと、どんどん体力を奪われてしまう。

苦しみながら延命するより、安らかな死を

○専門医の弊害ですよね。全体を見ない。臓器なり、病気なりそこしか見ない。生活習慣や生活背景、年齢などは一切、考慮しないんですよ。40才でも90歳でも同じことをする。

●もし年齢をするようなら、それは専門医ではありませんからね。

○点滴だって、死に向かっている人に無理やり打っても仕方ないんです。それなのに余計に打ってしまうから、身体がぶくぶくになる。

●なるほど。

○葬儀社の人が言っていました。昔の遺体は軽かったが、今の遺体は軽い、と。点滴で必要以上の水分を身体に入れられてしまっているからです。私はあれではまるで溺死体だ、と言っています。逆に昔の人遺体が軽かったのは、最後に医療が介入しない「自然死」だったからです。点滴をしないと、体内の水分を利用するので、むくみやカエル腹がすっきりなくなり、とても安らかな姿になるのです。

●本来、その人にとっての最善の医療を考えたときには、二つの要素が必要ですよね。生命の質と生活の質です。確かに生命は救われた。病気は治った。でも生活者としてはどうなったか。その両方が意識されないと。

○おっしゃる通りです。命を守るだけだと、ダラダラと死ぬことを先送りするだけの医療になってしまう。人間の命は地球より重いなどといって、本人が希望もしていない苦しい日々を送らされることが、本当に正しいのか。

●やはり、家族の問題が大きかったと思うんです。核家族化の拡大で、高齢者が家にはいられなくなってしまった。施設や病院に送り込まれることが、当たり前になった。やがて施設に入れられるのであれば、病院のほうが世間体はいいようだ、と病院の安全神話に繋がっていった。病院で何が行なわれているか、多くの人が知らないまま、死も人から遠ざけられてしまったんです。

○日本人は今や、人が死ぬということが、ほとんど念頭にないですよね。生まれたら、成長してやがて死んでいくのは普通のことなのに、異常状態になってしまった。

●本来、死に際しては医療は無力です。死は自然の摂理なのですから、何が何でもどうこうしようというのは無理がある。

○それなのに、そろそろ危ないですよ、などと言われると、死ぬことなど考えていないので、家族は狼狽する。延命できるならと過剰な治療も受け入れる。反対に、延命治療に疑問を持っていたとしても、家族を見殺しにするのか、という目で病院側から見られると辛くなる。そして、チューブだらけでベッドにくくりつけられる姿を見るわけです。くくりつけられている本人の意思は問われることなく、です。

●だから、そんな姿になっても生きたいと思うかどうか、本人が意思表示をしておかないといけないですよね。どんな姿でも生かしておいてほしいのかどうか。そうしないと、家族を困らせることになります。

独り暮らしでもちゃんと死ねます

○私がホームで見ているのは、超高齢者。ご家族も、もう年だからこれ以上何もしなくてもいいとおっしゃるし、病院でも精密検査をしたりしない。結果的に、点滴注射や酸素吸入など、なにも治療をしないで看取らせていただく機会をえました。使命感から延命治療をしたくなる病院では、まずできないことです。普通の人は知らない昔のような死、自然死です。これはとても安らかなんです。自然死とはつまるところ、「餓死」です。食べ物も水分も一切取らないで死ぬこと。こう聞くと恐ろしげに聞こえますが、死に際のそれは、まったく辛くはありません。当人は死に向かっているわけなので、空腹感も喉の渇きも感じない。

●人は極限状態では、苦痛は感じないんですね。

○それどころか飢餓状態は脳内モルヒネが出て気持ちいいし、脱水状態は血が煮詰まって意識レベルが下がるので、ぼんやりとした状態になるのです。見ている家族は、こんな死なら怖くないと言います。自然死を見ると、死へのイメージは大きく変わるようです。

●私も在宅治療で、これまでたくさんの方を看取ってきましたが、自宅で死を迎えたい、満足して死にたいという人が、この5〜6年で増えてきました。高齢者も家族も少しずつ現実がわかってきて、延命治療はしないでほしいという声も多くなっている。家族の側も変わってきているんですね。在宅といっても、特に設備などが必要なわけではないんです。1畳分のベッドさえあればいい。

○誤解を恐れずに言えば、理想的な死に方は「孤独死」と「野垂れ死に」だと私は思っています。医療者も家族もいないから、誰に邪魔されることもない。実に穏やかに安らかに死んでいける。

●確かにその通りですね(笑)

○ただ、問題は早めに発見してもらわないと、まわりが大変迷惑すること(笑)死ぬのに今の医療はいらないんですよ。死を邪魔しているんです。孤独死や野垂れ死にというと寂しそうですが、生まれてくるのも一人でした。死ぬのも一人でいいんです。

●それこそ一人暮らしでも、ちゃんと死ねますからね。ある時、一人暮らしの患者さんを訪ねると、ご自宅は足の踏み場もないほど乱雑な状態でした。病院にいけはきれいな部屋が待っている。でも、死に場所に選ばれたのは、散らかった自宅でした。病院なんかで死にたくない、と。

○その意味では、高齢者にとって、ガンは死ぬのにいい病気だと思います。死期がおおよそ予想できますから。ただし、治療はしないで、です。発見された時点で痛みのない末期のガンは、死ぬまで痛みは出ません。ガンだからといって必ずしも痛みが出るわけではないんです。逆に早く見つかってしまったために治療され、手術や治療で体力を奪われたり、正常な細胞が破壊されて死期を早める場合もある。

自分がガンだと知らせない方が幸せなこともある

●ガンが見つからず、末期まで楽しく過ごして、穏やかに死んでいくか、治療で苦しみ精神的にも大きなプレッシャーを受けて死ぬか、どちらがいいでしょう。ガンの痛みや苦痛は緩和ケア等で対処することができます。しかし、ガンと闘う心のケアは今、大きな問題になっています。ガンに罹ってしまったことで、心に大きなダメージを受けてしまう人は多い。

○実際、ある男性の患者さんは、肺ガンを5年前に患って亡くなったんですが、最後までほとんど治療は行ないませんでした。亡くなったのもご自宅。発見されてから4年3ヶ月間、趣味の卓球を楽しんでおられました。元気に過ごすことができていたんです。いよいよ末期となって、やっと訪問診療医が検査をしたら、腫瘍マーカーがとんでもない値だったので、たまげて腰を抜かしたそうです(笑)

●痛むならさておき、痛まないなら放っておく。知らないほうが幸せなこともあるのです。

○早期に発見されなければ、ガンに脅かされることもなく、いつも通りの生活が送れて、静かに自然に死んでいける可能性だってあります。

●早期発見されても、ガン治療でさんざん苦しい思いをして、最後は緩和ケアに行って下さい、というのはよくあること。医療から見捨てられた「ガン難民」がたくさん出ているのも現実ですね。

○日本人は命の有限性にきちんと気付かないといけない思います。人間としての繁殖期を終えたら、もういつ死んでもおかしくない。還暦や定年を迎えたら、死を視野に入れて考えること。死を前提に生きていく。会っておきたい人に会って、行っておきたいところにも行っておく。死を全く考えていないから、なんとか生にしがみつこうとするんです。だいたい年を取ったら、早すぎる死なんてないんですよ。もう十分に生きたんです。いつ死んでもいいんです。


○中村仁一 1940 財団法人高尾病院長を経て、老人ホーム「同和園」所長
●新田國夫 1944 北多摩医師会会長 認知症の高齢者を在宅診療を行なう


『週刊現代』3.31


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