加藤のメモ的日記
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2012年04月09日(月) 在日コリアの歴史

日本はアジアでいち早く、帝国主義のステージに、坂の上の雲を目指すようにして入り込もうとしていた。帝国主義は植民地を必要とする。日本は李子朝鮮を植民地として呑み込んだ。これを境に、膨大な数のコリアンたちが安価な労働力として流動化され、根こそぎにされたプロレタリアとなって、北九州、広島、大阪、名古屋、川崎、東京などの諸都市にいっせいに流入してきた。この中でも、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど発達した工業地帯であった大阪には、100万人近いコリアンが、低賃金労働者として集まってきた。

ここで興味深い現象が起こった。大阪に流入したコリアン労働者たちが1500年以上も前に彼らの先祖たちが開拓の村を建てた、その同じ土地の上にバラックを建てて住みつきはじめたのである。新米の移住者の多くは、すっかり日本風の中世都市のたたずまいに変貌を遂げた平野郷を避けて、平野川を少し下ったあたりの猪飼野の田園地帯に、吸い寄せられていった。そしてそこに、在日コリア世界「中層」の地層が、堆積を始めたのであった。

20世紀の初頭にはじまる、帝国主義時代の移民の波は、朝鮮半島のほぼ全域から、たくさんの人々を日本列島に引き寄せた。その数、210万人ともそれ以上ともいわれる。猪飼野に移り住んだ人々のうちで、最も多かったのは済州島の出身者であった。日本の敗戦を契機に、100万人超のコリアンたちが、祖国に戻ることになり、猪飼野のあたりも、一時はすっかりさみしくなった。ところがその数年後、半島を分断することになる朝鮮戦争(1950〜53休戦)の勃発前夜、済州島からの新しい大量難民が、大阪にやってくることになった。南北分断に反対する人々の運動が、済州島を中心に起こり、流血の弾圧を受けた。その弾圧から逃れた人々の群れが、親せきや知り合いのいる大阪に集まってきたのである。

ニューカマーも含めたこうした人々は、猪飼野の北西のはずれにあった国鉄環状線鶴橋駅の周辺に密集してすみはじめた。もともと鶴橋には戦前から日本人の経営する小さな駅前商店街があり、戦後はそこには派手な闇市ができていた。そこが次第に在日コリアンがたちが生活必需品を手に入れるための、魅力的な商店街へと発展するようになった。そんなわけで、済州島出身者のニューカマーが多い鶴橋近辺と、戦前からの住民が多く住む猪飼野中心部との間には、微妙な地層のずれがある。 

壁とその解体

古層のコリア世界と、近代に形成された中層コリア世界との間には、いくつもの大きな相違点がある。中層コリア世界に生きたのは、半ばプロレタリア化した人々であったから、当然暮らしぶりも貧困であったし、奢っていた当時の日本人の多くは、コリア世界に何か自分たちが学ぶべき重要なものがあるなどとは、思ってもみなかった。このあたり、日本人が三韓渡来者から、夢中になって学びとろうとしていた、謙虚な古層の時代とは大違いである。そのために、在日コリア世界と日本人との間には、コミュニケーションを阻む、見えない「壁」ができあがり、双方が文化的ブロックの中に籠って、相手を軽蔑したり敵視しあう悲惨な状況が生まれた。力関係からいっても当然予測されるように、在日コリア世界は、日本人からひどい「差別」を受けたのである。

職業選択の自由の少ない在日コリア世界の中に溜まりに溜まったエネルギーは、芸能界や遊技産業や土建業や金融業のような、さまざまなすき間産業の通路にほとばしっていった。彼らには、過剰なバイタリティーを抱えて、がめつい生き方をする権利があった。壁を作ったのは日本人なのだから、資本の流動性に翻弄されて、その壁の向こうに押しやられてしまったコリアンたちには、壁に体当たりをくらわす権利があった。しかし、壁をつくったのは資本主義であったから、その資本主義が自己変容を起こせば、おのずと壁も解体していく。

経済が国を単位として動いている間は、民族を隔てる壁にも大きな効能があったけれども、グローバル化した資本主義は、もはやそういう壁を必要としない。韓国経済の近年の発展によって、ますます壁の存在はお互いの邪魔になるようになった。見えない壁を解体しよう、かくして「韓流ブーム」は起こるべくして起こった。


『週刊現代』2.4


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