加藤のメモ的日記
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女性ホルモン注射、アガリスク、どくだみ、鮫の軟骨、最後には「手かざし」にまで頼ろうとした。
‘97年に前立腺がんを宣告されて以来、手術を受けずに闘病を続けてきたが、病魔は容赦なく体を蝕んでいった。そして昨年12月26日、プロゴルファー・杉原輝夫はこの世を去った。
生涯現役を貫くため「切らない治療」を選択した杉原。その闘病生活を支え続けた玲子夫人が、最期の様子をこう回想する。「パパはがんに侵された後も、”今の体調を報告するのも仕事と取材に応じていました。しかし、昨年の梅雨が終わる頃に体調が悪化し、7月に京都の病院に入院しました。4ヶ月後の入院生活を経て、11月末にパパの希望で退院しました。ただ、退院4日めから歩けなくなり、その後は一日中ベッドで寝たきりでした」昨夏以降は抗がん剤を使用しなかった。「京都の病院に入院後、パパが”抗がん剤はいらん”と言い出したんです。抗がん剤を打つととても辛そうで、とにかく”しんどう、しんどい”としか言わない。パパが言いだすと誰も止められませんから、先生も根負けされたようです。抗がん剤を止めると、がんの進行を止められないことを意味する。私たちはパパが辛い思いをしなくてすむなら……と納得するしかなかった」(玲子夫人)
家族にとって辛い選択だった。退院後は夫人の作るお粥を時間をかけて食べていた杉原だが、次第に喉を通らなくなった。「処方された錠剤を飲むのも苦しい状態でした。水を飲むのが大変で、少し含んではゆっくりと喉を通す。最後は痛くて水すら喉を通らず、何とか重湯をすすっていました。栄養補給のために1日3時間かけて点滴を打ちました。
ただ、頑固さは相変わらずで、血液検査のために採血されると”血がなくなってしまうがな”と声を絞り出すようにして怒っていましたね。亡くなる前は、ちゃんと顔を見て話せませんでした。見ていた本当に可哀想でね…。寝返りも打てず、薬の影響もあって腰痛が激しかったようです。声が出しづらいこともあって、どこが痛いのかということも私たちに伝えられず、顔を歪めてばかりいましたから」(玲子夫人)そして12月28日8時30分杉原は息を引き取った。「やりたいようにやってきたんだから、パパは悔いがなかったと思います。ただ、家族は違いますけどね……」玲子夫人は穏やかな口調ながら、後悔の念をにじませていた。
妻の食事に”これ虐待かッ”
がんとの闘いが始まったのは97年、杉原が還暦を迎えた年だった。前立腺がんの宣告を受けたとき、杉原は「僕には時間がない。あと2年は第一線でプレーしたい」と、手術によって休養に入ることを拒み、女性ホルモンを投与しながらトレーニングを続ける方法を選択した。治療を始めてしばらくすると、ドライバーの距離が30ヤード以上落ちた。女性ホルモンが筋肉に悪影響を及ぼした結果と判断した杉原は、投与を中止して民間療法に希望を託した。アガリスクやどくだみ、鮫の軟骨、お灸など、周囲から体に良いと言われたものは手当たり次第に試した。
一時は前立腺がんの数値を示すPSA(腫瘍マーカー)値が最大23.4から0.3まで減少した。がんを克服したかのようにも報じられた。しかし08年リンパ節への転移が判明した。その2年後には、喉、腹、肺の周辺など11か所への転移が認められた。杉原は女性ホルモンの再投与に加え、放射線治療を始めた。だが、放射線治療を始めてから2〜3日で喉に違和感を覚えるようになり、1か月の照射予定を18日間で断念した。喉は青紫に腫れあがり、やがて真っ黒になった。
10年10月、放射線治療を断念した直後に、杉原は闘病生活の苦しさをこう語った。「スポーツドリンクを1缶飲むのに3時間かかる。栄養を考えてトマトジュースを飲もうとしても、塩分で喉がヒリヒリする。食べないと体力がなくなると思い、お茶で無理やりごはんを流し込むけど、食べたらすぐに洗面所に走って戻してしまう。痰もたくさん出たな。痰が切れればいいが、切れないと苦しくて大変なんや」それは「食べることが趣味」と公言していた杉原にとって耐えがたい現実だった。
10年末には自宅療養に切り替えたが、自宅でも同じ苦しみが続く。11年1月の取材での話。「家内に迷惑をかけてばっかりや。心配させたらアカンと思うから痛い顔もでけへんし、家内は何とか栄養を取らせようと食卓に並べてくれる。病気についてよく勉強もしてくれているし、喉を通りやすいように流動食を出してくれる。大変な手間をかけているけど、今の僕は食べるのに難儀する。思わず”これ、虐待かッ”というてしもうた。うまい、うまいといいたいが、食べることが一番辛いんや……」
「転移後は、パパは藁にもすがる思いでどんなものにも飛びついていました。家族がやめてと言っても、”気持ちが落ち着くから”と言われるとそれ以上言えなかった」だが、それ以上は快方に向かうことなく、杉原は11年7月、再び京都の病院に入院することになった。夫人は苦しい胸の内を明かしている「やはりちゃんとお医者さんにかからないとアカンかったと思う。ただ、治る、治らないは別として、本人の気持ちが楽になると言われたらね……」
最期の言葉は「すまんかったな」
昨年1月の杉原の言葉。「ゴルフも病気も闘争心が大事。ぼくは道具の進化を利用して非力をカバーしてきたが、それも若手に負けたくないという闘争心があったからこそ、僕はそう思ってがんと闘ってきた。だからがんに負けたと思った時点で僕は終わりなんや」杉原はこんなエピソードを明かしてくれたことがある。前立腺がんを告知されて間もないころ、自宅の近所で車にひかれて息も絶え絶えの野良猫を見つけた。杉原が近所の動物病院に運び込み、猫は奇跡的に助かった。
「お腹を押さえないと自分でウンチもできんし、後足を引きずりながらでないと歩けない。でも、猫ですら少しでも前に歩こうと必死に生きている。この猫を見ていたら僕も負けてらへんと思ったんですわ」しかし、晩年は弱気になる一面も見せるようになった。口癖の「しゃーないがな」が、「もう死んだ方がマシや」に変わった。敏一に「あのとき手術で取った方がよかったかな」と漏らすこともあったという。
晩年、杉原はこう話していた。「がんに冒された僕が言うから説得力があると思うが、がんは早期発見、早期治療が大事。ぼくはプロゴルファーという特殊事情があり、家族に迷惑をかけてしまった。がんの治療については全て自分の判断で決めてきたことやから後悔はしていません。ただ、反省はせなアカンと思うてます。心配してくれる家族がいる以上、少しでも長生きする手段を選ばないといけない。それは痛感しています。ぼくのがんについて家内がなんやかんやいうことやない。ホンマは心配しとるかもしれんけど、それを口に出さんでおってくれるのは、やっぱりありがたいね。命よりゴルフを選んだ僕に、文句もたくさんあったやろうにな」
「死ぬ時には苦しみたくない」生前の言葉通り、杉原は眠るように旅立っていったという前日まで変化はなかったんです。28日の朝、食事の世話もしていないのに”すまんかったな”と言葉をかけてきた。おかしなことを言うなと思いましたが、布団を掛けたら眠るように息を引き取りました。(玲子夫人)ゴルフウェアで旅立った杉原だが、さいごはプロゴルファーでなく夫、そして父親の顔だった。家族への「少しの反省」を伝えて、ドン・杉原は14年の長き闘いに決着をつけた。
『週刊ポスト』1.27
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