加藤のメモ的日記
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2012年02月03日(金) いったい何のための人生か(5)

「97歳になる義母が機械によって生かされて、早くも4年がたとうとしている。薄情に思わるかもしれないが、無駄な延命治療はやめてのほしいと訴えたい。『心臓は大丈夫だから、まだまだ……』と言って私たちを励ます医師。ほとんど手のかからない患者なので、病院にとっていい収入源になるからそんなことを言うのでしょうか。

治療らしい治療はほとんどしないで、時々病室を見廻るだけ。このままずっと延命を続けるのでしょうか。元気なころは、姑は人一倍自尊心が強かった。現在自分が置かれている自分の状態を知ったら、とても喜ぶとは思えません。医療費を増やそうとする医療側の意図だけで、心の通わない延命治療を続けることは、間違っているように思われてなりません」

支える側の負担と苦労が察せされます。これで僕も無駄な延命治療だけは絶対やめてくれな、と女房に頼まざるを得なかったわけで、こういう人工的に生かされている気の毒な老人が目立ってくるに従い、「現代の医学はこれでいいのか」という疑問が生じます。「これでいいんだよ。人間の命はカネに代えられないんだ」僕の友達は断定しますが、その費用を負担する方はたまったものじゃありません。

僕のまわりに定年を”ハッピー・リタイアメント”と称して指折り数えてそれを待つ、情けないサラリーマンが増えてきた。「とりあえず、厚生年金と失業保険で食うには困らないからな。悠々自適しながら第二の人生を考えてみるさ」という、彼らの言い分を聞くたびに、僕は不快な気分になって「まだ60そこそこで働けるくせに、勝手に引退するな。年金制度が充実しているから気楽なことを言うが、年金がなかったら老後も働くにきまっているだろう?過保護な制度に甘えて自分を老人にするなんてとんでもない。働きになれば仕事はいくらでもある」とハッパをかけたい気持である。

このごろの高齢者ほど、平和ボケ・繁栄ボケの典型はいない。老人扱いはイヤだと言いながら、国の老人保護政策にどっぷり浸り過ぎわがままで、自分勝手でどうにも扱いにくい存在だ。彼ら高齢者が国家財政を圧迫している不愉快な現実に、なぜ誰も怒らないのだろうか。「老人たちよ、そろそろ反省し自重してもらいたい。昔に比べ経済的な余裕ができたのだから、ここらでエゴの刃を振りかざすのをやめてくれ。適正な負担をして若い連中を助けてやってほしい」

こう訴えたいのが僕のホンネだ。老人がいつまでも弱者意識で社会に甘える時代はとっくに過ぎた。年金や医療制度のおかげで、世帯主の老人が平均で2000万円以上の預貯金を持っている。健康面では弱者だが、それを補って余りある経済力が過剰な福祉のせいで、備わってしまった。

「老人は、もはや弱者とは言えない。我が国の老人重視政策が彼らを強くした。なのにいっこうに精神的な自立をしようとせず、弱者のわがままむき出しで若者を攻撃し、日本の将来を憂えるが、それなら自らの老人特権を一部放棄したらどうなんだ?老人たちの得て勝手がいずれ国をつぶすことに気がついてもらいたい」と僕は機会さえあれば、「元気」な老人たちに挑戦している。

僕だって、もう65歳を過ぎた年金受給者のはずだが、国会議員の年金は削られてしまった。規定以上の所得があるという理由だから、むしろそれが自慢で「年金で食おうなんて思っていない。男は働けるところまで働いて、ダメになったらそれまでだ。年金なんかアテにしないで働くことに意義がある。働いて働いて、ポックリ死ぬ。それが人生だ」と、自分に言い聞かせて、老骨にムチ打って一生懸命、動き回る毎日だ。

全国の老人たちよ、元気なら年金返上の覚悟で死ぬまで働け。老人の自立こそが日本を救う道だ。「老人が自立すれば、日本は破滅しなくてすむんだ。日本の将来は老人パワーで明るくなる。日本を潰すのも、その責任はひとえに老人の双肩にかかっている」と僕は確信しているが、老人たちはその自覚と自負がまったくない。ここらで褌を締めてもらわないと、次世代の連中が大変なことになる。次世代の連中にはそれがわかっているから不安と絶望のトリコだ。



『老人栄えて国亡ぶ』


加藤  |MAIL