加藤のメモ的日記
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| 2012年01月15日(日) |
羆嵐〈くまあらし〉(1) |
アイヌの羆撃ち専門の猟師から耳にした羆の習性を披露するものもいた。羆に襲われた折に死んだ真似をすれば助かるという説は根拠がなく、羆を仕とめるか逃げる以外に助かる道はないらしい、と彼は言った。羆は悪食で墓をあばき死者の肉まで食い漁ることから考えても、死んだふりをよそおった人間が食欲の対象からはずされることはあり得ないという。 羆が賢い動物だということも、彼らの話題になった。羆は山中を自由に行動するが、老練な猟師の追尾を受けているのに気付くと、足をはやめる。人間が通りにくい足場の悪い険阻な場所をえらんで猟師の接近をはばもうとする。 戻り足というものもある、あ或る男は言った。 羆は、土に印される自分の足跡が猟師の執拗な追尾をまねく原因になっていることに気づき、空気の流れに交る人間の体臭、銃の油の匂いなどから自分をねらう人間が背後にせまっていることをかぎとると、巧妙な手段をとって追尾者を襲うことを企てる。羆は立ち上がり、歩いてきた道を引き返す。その折、羆は、自らの足跡を慎重に踏み直してゆき、一定の距離をもどるとひそかに近くの繁みに足を踏み入れ、身をかくす。 やがて猟師が姿をあらわし、羆が近くにいることを察して銃をかまえ足を早める。かれは大きな足跡をたどってゆくが、不意にそれがある個所で断たれていることを知る。戻り足だと気づき狼狽して立ちすくんだ瞬間、羆が後方から襲うという。
銀四朗が、急に背をかがめ足音を殺しながら丘陵の方向に進みはじめた。区長は、動悸がたかまるのを意識した。銀四朗は雪を静かにふんで歩み、区長はその後からついていった。 丘陵が、迫ってきた。銀四朗は、その傾斜に足をふみ入れたが、不意に動きをとめた。体は前方に向けられていたが顔が右方にねじ曲げられている。 区長は、その視線の方向に眼を向けた。そこは、村落の渓流のふちからはじまる山の頂にある平坦地で、トド松が雑木とともにまばらに立っている。彼の眼には、なにもとらえられなかった。ただ樹木と雪の白さがひろがっているだけであった。 銀四朗の体が、かすかに動いた。彼は丘陵の傾斜に踏み入れた足をおもむろに引くと、丘陵のふちに沿って歩きはじめた。風に吹きさらされた平坦地に、雪は少なかった。銀四朗は、静かに雪をふみ、その足跡に区長は足をふみ入れた。 突然、区長は自分の体が凍りつくのを意識した。樹幹の間から、茶色いものがみえた。ナラの大木がそびえ立っていて、その傍らに毛をかすかにふるわせているものいる。距離は、30メートルほどであった。 彼の体に、銀四朗の腰にしがみつきたい衝動が起こった。大鎌が手からはなれ、雪の上に落ちた。足が硬直し、全身に痙攣が走った。かれは、雪の上に腰を落とした。 かれのかすんだ眼に、銀四朗が一歩一歩進んでゆくのがとらえられた。羆は、逞しい背を向けて立っている。山の傾斜をのほってくる男たちの動きを見下しているようだった。 銀四朗の動きがとまった。かれは、ニレの巨木に身を寄せ銃をかまえた。 区長には、その立射の姿勢が美しものにみえた。銀四朗は背筋を正しく伸ばし、両足をわずかにひらいて水平に銃身を突き出している。銃に傾けた顔の角度も、安定感にみちていた。 凄まじい発砲音が、凍てついた空気をふるわせた。金属の板を一撃したような甲高い音響であった。 区長は、茶色い大きな岩石のようなものが2メートルほどはね上がるのをみた。そして、それが重量感あふれた音を立てて落下すると、周辺の樹木から雪塊が一斉に落ち、あたりは雪片で白く煙った。 区長は、眼前の光景が何を意味するのかわからなかったが、やった、やったと胸の中でうわ言のように叫んでいた。 しかし、羆の生命はまだ絶たれていなかった。茶色い毛が逆立つと、ゆっくりと立ち上がった。うるんだような眼が、こちらに向けられた。大きな体であった。血のあふれ出る口が半ば開かれ、異様な吠え声がふき出た。 銀四朗の立射の姿勢はくずれず、早くも次の弾丸を装填したらしく、再び銃声がとどろいた。羆の体がのけぞり、仰向けに倒れた。 銀四朗が第三弾を装填し、銃口を羆に向けた。羆の体から長々と呻き声が起こっていたが、徐々に弱まって、やがて消えた。 物音は、絶えた。区長は、これほど深い静寂を味わったことはない、と思った。感覚も思考力も失われ、わずかに雪の中で座っているのを意識するだけだった。 銀四朗の姿勢が崩れ、銃をかまえながら羆に近づいてゆくのみえた。 区長は立ち上がろうとしたが、筋肉に力が入らず前のめりに倒れた。。眩暈がおそってきて、かれは、雪に埋もれたまま頭を垂れていた。そして、雪を口にふくんで大鎌にすがって立ち上がった。 区長は、足をふらつかせながらも銀四朗に近づいた。 羆を見下ろしている銀四朗が、振り返った。その顔を眼にしたかれは、再び意識がかすみかけるのを感じた。銀四朗の顔は、死者のそれのように血の気が失われていた。唇は白け、日焼けした顔の皮膚には皺が不気味なほど深くきざまれていた。 区長は、羆に視線を据えた。剛毛におおわれた胸部と頭部から靄のようなものが立昇っている。それは、額と胸部から流れ出ている多量の血液から湧いている水蒸気であった。 オーイという声が、かすかにきこえた。区長は、その声を何度も耳にしていたことに気づいた。霞んだ意識の中で、それらは空気のように流れただけであった。 かれは、銀四朗の傍からはなれると、大鎌の柄に体を支えながら雪をふんで平坦地のはずれに立った。トド松が密生した山の傾斜の下方に、男たちの姿がみえた。 「オーイ、ドウシタ」 樹幹の間を縫って、また声がした。 区長は、放心した表情で傾斜を下りはじめた。足が無感覚になっていて、彼は何度も雪の中で倒れた。男たちが、足を早めてのほってきた。 「銃声がしたが、どうした」 近寄った分署長が、甲高い声をかけてきた。 「仕とめた」 区長は、ひきつれた声で言った 分署長の傍にいた男が、眼を大きく開くと叫び声をあげ、手にした銃をあげて体をはずませた。その叫び声と動作に銃後の男たちは事情を察したらしく、歓声をあげて傾斜を駈けのぼってきた。
吉村昭
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