加藤のメモ的日記
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2011年12月28日(水) 金正日急死-2

‘11年の2月15日、69歳の誕生日を迎える前日に、改装したばかりの芸術劇場に二人を呼び、芸術鑑賞との名目で二人を握手させた。一瞬ではあったが友好ムードが醸成された。だが、3月下旬にNATO軍がリビアの空爆を行なうと、空気が一変した。「リビアは核開発を放棄し、欧米におもねったからああなった!我が国は断固として核開発を進める。核武装してアメリカに対抗することのみによってのみ、我が国は生存していける!」

金永春率いる強硬派のこうした主張が、急速に支持を得ていった。強硬派が勢いを増せば増すほど、改革路線を推し進める正恩の立場はなくなる。金総書記はまさに最後の力を振り絞って正恩支援を進めた。‘11年4月12日に朝鮮人民軍の人事が発令され、2人の上将、5人の中将、38人の少将が誕生したが、この中に少なからぬ「太子党」の面々が含まれていた。いわば、軍の中に「正恩親衛隊」をつくった形だ。さらに金正書記は6月13日に、中国共産党の李源潮、組織部長を平壌に招いた際、正恩とともに、正恩の後見人といわれる総書記の妹婿の張成沢副委員長などの側近中の側近を出席させたが、この重要な咳に金永春を招かなかった。

「強硬派路線を進める金永春の警告でした。永春のパージも辞さない、という姿勢を見せたのです。そして、金総書記は永春に『金親子に忠誠を示す最後のチャンス』を与えます。8月末、金総書記がロシアに訪問した際に金永春を同行させ、正恩の後見人になることを再度要請した。ところが9月9日、建国63年の閲兵式に、総書記はあえて正恩と金永春を並んで立たせたが、二人はにらみ合うばかりで、溝は深まらなかったようです」(中国の政府高官)

もはや永春に期待はできない。金総書記はそれ以降、重要な会合の場に永春を同席させることはなかった。金親子が永春を見放したとみた中国は、驚くべき決断を下す。正恩を指示するのではなく、なんと金永春に「金総書記亡き後は、中国人民解放軍が金永春を全面的に支援する」と伝えたのだ。中国政府高官は「李副首相らは10月の直接会談で『金総書記の最期は近い』という結論だけでなく、『金正恩は後継者として無能である』という結論も出しました。

正恩は今のところなんの成果も出していない。李副首相も直接正恩と面会して、彼の人となりを見極めたのでしょう。金総書記が最期を迎えるというタイミングに朝鮮人民軍最大の実力者である永春がいなければ、北朝鮮が大混乱に陥るのは自明の理。しかも米軍がイラクから撤退し、アメリカが中国を『新たな主敵』と見立てている中、対米強硬派でもある金永春は頼もしい援軍です」

父親を失ったのみならず、もっとも強力な「人民軍」という後ろ盾を永春に奪われた。北朝鮮が頼れる国が中国しかない以上、金総書記亡き後の金正恩は非常に苦しい立場に置かれることになる。「金総書記の私語、中国側は早速正恩に究極の選択を迫っている。それは、金永春一派の軍門に下り、朝鮮人民軍と中国の傀儡となるか、それとも亡命の道を選ぶか、というものです。しかし万が一後者を選んでも、中国はすでに『もし正恩が我が国に亡命してきても、これを受け入れるつもりはない。許すのはせいぜい1〜2ヶ月のトランジット滞在だ』ということを決定しており、水面下でも正恩に伝わっているはずです。(中国政府高官)


『週刊現代』


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