加藤のメモ的日記
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2011年12月27日(火) 金正日急死

「金永春人民副部長は、過去30年近くにわたって金総書記を支え、ひたすら”汚れ役”を務めてきた人物です。‘83年に韓国の全斗瑍大統領らの暗殺を目論んだ『ラングーン事件』や、‘87年の大韓航空機爆破事件など、金総書記の命を受けて、数々のテロを主導してきました。金総書記は、軍を最優先する『先軍政治』を掲げていましたが、この路線を推し進めたのも金永春といわれており、まさに金正書記の右腕として活躍してきた人物で、強硬派の代表格。その人物が参加していないということは、金親子と軍部との間に深刻な対立が生まれているのを伺わせるのに十分でした」

‘9年2月、金永春は金正恩が内々に「後継指名」を受けた一ヵ月後金正書記の67歳の誕生日を祝う席で「将来の金正恩体制を全面的に支える!」と高らかに宣言し、金総書記から人民武力部長の指名を受けた。正恩には権力基盤がないため、金総書記は朝鮮人民軍を掌握する金永春を国防相に昇格させ「後見人」の役を託したのだ。

しかし、この二人の考え方が全く違うために、北朝鮮の中枢内部に大きな亀裂が生まれることになった。韓国国防省の高官は「金正恩はスイスへの留学経験があり、海外の自由な空気を肌で知っている。また、彼が依っているのは『朝鮮太子党』と呼ばれる、北朝鮮の有力者の二世、三世のグループ。彼らも一様に海外経験があり、このままでは北朝鮮が消滅してしまうと危機を覚えている。彼らが目指すのは、国外に門戸を開い、。経済改革を行なうことです。しかし、経済改革に着手し、国外に門戸を開けば、軍部の力は必然的に弱体化する。金正恩が経済改革を進めることに、金永春率いる軍部は猛反発する姿勢を見せたのです」

後継者として表舞台に立った正恩は、その手腕をアピールしようと、「10万戸の住宅建設」「デノミ政策」「朝鮮国家開発銀行の発足」などの改革を次々と着手した。ところが、こうした動きを嫌った軍部は、この改革をことごとくつぶしていったのだ。‘09年4月には6カ国協議からの脱退、5月には2回目の核実験を強行。‘10年に韓国海軍の「天安号」をごう沈したことは記憶に新しいが、こうした北朝鮮の「暴走」は、すべて正恩の改革をつぶすために、金永春率いる軍部が謀ったことなのである。

にらみ合った正恩と永春

一方の正恩も「国権の最高機関」と憲法が定める国防委員会の解体を打ち出し、古い軍部への対抗心をむき出しにした。しかしこれが軍部の逆鱗に触れることになり、両者の対立は激化する一方だった。これには金総書記も頭を痛めた。軍部の支援なくしては「金王朝」の存続は成り立たないからだ。金総書記は何とか両者の関係を取り持とうと


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