加藤のメモ的日記
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2011年12月26日(月) 苦しい時に口ずさんだ歌(60)

人生に決められたも目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生は寂しい。さびしいだけでなく。むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、続かない。人生の目的は、「自分の人生の目的」を探すことである。自分一人の目的、世界中の誰とも違う自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言い方だが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。

そのためには、生きなければならない。生き続けていてこそ、目的も明らかになるのである。「我あり、ゆえに我求む」というのが私の立場だ。そしてもその目的は、私たちが生きている間には、なかなか見つからないかもしれない。確実に見つかるのは目的ではなく「目標」である。だが目標は達成すれば終わる。そのあとには、自分は達成した、という満足感が残るだけだ。そして、その満足感も時間とともに薄れてゆく。そしてやがては単なる記憶に変色してしまう。

しかし、目的は色褪せることがない。失われることもない。そこが違う。人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと思うなら、もう一つ、「自分でつくる」という道もある。自分だけの人生の目的を作り出す。それは、一つの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。しかし、これはなかなか難しいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人々がつくった物語を「信じる」という道もある。

<悟り>という物語。<来世>という物語。<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は真実となる。その人がつかんだ真実は、誰も動かすことはできない。奪うこともできない。失われることもない。しかし、自分以外の人がつくった物語を本当に信じられるためには、そのつくった人を尊敬できなければならない。共感し、愛さなくては、信じられない。だから信仰や宗教は、教義から始まるのではなく、その偉大な物語をつくり、それを信じて生きた人への共感と尊敬と愛から始まる。

そのことを昔は「帰依する」と言った。ナミアブダブツの「ナーム」「ナモー」は、「帰依します」という言葉である。それは「信じます」であり、「尊敬します」であり、「愛します」でもある。信仰や宗教は、そこから始まる。そういう存在が見つかった人は幸せな人だ。信仰とは求めるものであるが、求めるものでもあるが、求めて必ず見つかるというものでもない。それは出会うものであり、むこうからやって来るものでもあるのだ。

それは<偶然>かもしれない。運命と宿命の流れの中に突然に生ずる偉大な<偶然>の働きとは、そういうものである。その偶然に出会った人は、そのことを心から感謝すべきだろう。だから蓮如という昔の宗教家は、ナムアミダブツを「感謝の言葉」として考えたのである。



『人生の目的』五木寛之


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