加藤のメモ的日記
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| 2011年12月03日(土) |
死に損なわないために |
「いい時に死にたい」それはいつなのか。人は何歳で死ぬのが幸せなのか。
このところ友人や好きだった人が相次いで亡くなったため、ふと『自分は取り残されているんじゃないだろうか』という気になることがあります。小林旭の歌に♪いいやつばかりが先にゆく どうでもいいのが残される(『惚れた女が死んだ夜は』)というフレーズがありますが、この歌の通り、亡くなるのは世の中に必要な人ばかりで、私はどうでもいいから生き残っていると思う時があるんです」
こう語るのは、脚本家の山田太一氏(77歳)だ。『岸辺のアルバム』など、多くの作品を通して人の命を見つめてきた山田氏のような人物でさえ、はたと立ち止まり、そして悩む。それが死という問題である。あなたは、自分の「死に時」を考えたことがあるだろうか。家族や周囲に迷惑をかけずに逝きたい。たくさんの人に惜しまれながら、盛大に送られたい。あるいは、ひっそりと消えるように。理想の氏は人それぞれかもしれない。しかし、家族を煩わせたり、みっともない思いをさせる「死に損ない」にはなりたくない、それが人情だろう。
作家で書誌学者の林望氏(62歳)は最近、妻と散歩をしながら、死について語るようになった。「若いころは、死は抽象的な概念に過ぎないですが、還暦も過ぎると、身近に死ぬ人も出始める。そうすると、絵空事じゃないんだという気になります。宗教や哲学は、死という不条理に折り合いをつけるために生まれた。しかし自らの死については、誰かの考えを借りるのではなく、結局は自分で受け止めなければならないんです」
幸せな最期を迎えるには、どうすればよいのか。その日のために、すべきことは何なのか。いくら考えても、結論は見出せない。結局、真剣に死と向き合うことのないまま年齢を重ね、不本意な最期を迎える人も少なくない。『死ぬ時に後悔すること25』(至知出版社)などの著者で、東邦大学大森病院緩和ケアセンター長の大津氏がかって看取った、30代後半の胃がん患者。
妻と、まだ幼い子供がいる彼は、最後の最後まで必死でガンと闘った。だが、そのことがかえって、彼の拠り所であるはずの家族との関係を壊してしまった。「その患者さんは理系の研究者で、抗がん剤や治療法を調べて医師に提案するほど、自分のがんを勉強していました。可能な抗がん剤の組み合わせも、すべて試した。それでも病状に歯止めがかからなかった。
残された時間は、もう長くない。しかし、彼は体を治すことだけを考えて、奥さんやお子さんと過ごす時間を作りませんでした。奥さんが『大丈夫なの』と気遣ったり、息子が『パパ』と近寄っても、『うるさい、俺は絶対に治るんだ。今は近寄るな』と撥ねのけてしまう。ご家族は少しでも一緒に過ごす時間が欲しかったのに、患者さんは治療のことで頭がいっぱいだったのです。
そのまま、この男性患者は終末期に入った。亡くなる間際に、妻が夫のそばで語った言葉を、大津氏は今もはっきりと覚えている。「奥さんは、『あなた、まさか死ぬわけないわよね。あれだけ言っておいて、私たちを置いて行くつもりじゃないわよね』と叫び、『この子に最期の言葉を言いなさいよ!何も言わずに死ぬ気なの!』と、死にゆく夫を泣きながら責めていました」おそらく誰もが、この患者の立場になれば、同じように「生きたい」と願うはずだ。家族のために諦めずに病と闘ったことが、かえって家族を不幸にしてしまったこの実例は、「よく死ぬ」ことがいかに難しいかを物語っている。
死に際しての要望や目標をまとめた「エンディングノート」をつけておくというのも一つの方法である。会っておきたい場所、したいことなどを具体的に日付を入れてまとめるとお、自分の死と余生を見つめる契機になる。大津氏はこれまで1000人以上の最後に立ち会った経験から、いざその日が来ても焦らないよう、まずは「死に時」を意識することが大切だと話す。
「多くの人にとって、終わりは突然やってきます。生きているということは、実は幸運の集積に過ぎない。だからこそ、やるべきことというのは早めにやったほうがいい。先日亡くなったステーブ・ジョブスは『今日が人生最後の日だとしたら?』という問いを、毎朝鏡の前ですると述べています。そう心がけると最後にい時間を迎えられる可能性は高くなるでしょう。自分と真剣に向き合わないまま、いきなり死と直面するのが一番辛い」さらに普段から「最期」への心構えを作ることと並んで大切なのは、他者への思いやりだという。
「私が担当した60代の患者さんは。自分のやるべきことをリストアップして『3周しました』と言っていました。妻と二人で旅行するとか、子供と酒を飲む、孫と遊ぶなど、やりたいことを3回もしたそうです。よい最期を迎える方は、自分のことより人のことを考えますね。自分の生命ではなく、残された人が辛くならないように、悲しくならないよに考える。そういう方は穏やかに最後の時間を過ごしているなと思います」死はいつ訪れるかわからない。明日かもしれないし、10年後かもしれない。だからこそ、今からでも「死に時」を考えておくことが大切になってくるのだ。
『週刊現代』
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