加藤のメモ的日記
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| 2011年11月29日(火) |
大学病院革命(53) |
国民皆保険制度ができて間もない昭和30年代、日本人に一番多い病気は結核でした。死因トップは脳溢血です。このころの平均寿命はようやく60歳になりました。その時、今のように血圧を下げる薬があったでしょうか。あったにはありましたが、あまり効果がないものでした。それに皆が投与を受けられる状況ではありませんでした。
ですから、高血圧に対して手の施しようがなく、脳溢血の人が多かった。ほとんど死ぬか、重い後遺症を抱えて寝たきりになっていました。さらにその10年前の昭和20年代になると死因トップは結核です。治療薬がありませんでしたから、結核にかかると、みんな「もう長くはない」と諦め、そして死んでいきました。
今はどうですか。結核にかかり、死を意識する人なんていませんね。血圧が高ければ何種類もの降圧剤があります。脳溢血で倒れても一命をとりとめ、リハビリを受け社会復帰をする人はたくさんいます。死因のトップはガン、心臓や脳の血管の病気です。原因は何かというと、生活習慣が大きな原因の一つなのです。大人も子供も。体重が増え続けています。食生活がアンバランスになり、病院にいくと高血圧、糖尿病や高脂血症、動脈硬化、肥満の患者さんだらけです。「メタボリックシンドローム」と言われるものです。科学と技術の進歩の恩恵に預かり、便利で快適な生活を追及してきた結果がこれです。
日本は世界一の高齢社会です。100年前は40才だった平均寿命は今や80歳。公衆衛生、予防医学、栄養状態がよくなりさらに医療が進歩したからです。1961年に国民皆保険が導入され、世界でも類を見ないほどアクセスのよい、いつでも誰でもどこでも医療を受けられる制度ができました。高度先進医療、高額の医療機器の普及などです。
明治8年(1975)年には、東京、大阪、京都で医師開業試験が行われました。これによって医者になる資格を国が与えるようになりました。さらに明治16(1883)年には医術開業試験規則及び医師免許規則が施行され、日本の医学はドイツ医学をベースとした西洋医学が名実ともスタンダードとなったのです。明治19(1896)年には帝国大学付属病院が誕生しました。森有礼が文部大臣の時です。東大は帝国大学として、国の一部となったわけです。取り入れたのはドイツ医学です。
明治26年(1893)年には講座制が法律で決められます。講座制とは強い権限を持った教授を中心としたシステムのことです。「第一内科」ではなく、教授の名前を入れて「○○内科」と呼ぶようになります。この時点で、日本の医学の将来が決定づけられました。東大医学のみならず、すべての大学医学部がドイツ医学を基本とするようになったのです。
「イギリスはお医者さんを育てる。ドイツは医学を育てる」と医学の世界ではよく言われますが、日本がドイツ式医学を選んだ時点で、日本の大学病院は、強い権限を持った教授のもと臨床より研究を軸とする流れが折り込まれていたわけです。逆にいえば日本においては当初より、大学病院は「研究するところ」であり「医者を育てるところ」という意識は薄かったのです。明治維新以降、日本の医学界は、東大医学部を入り口としてドイツ流の医学を導入した。そして各地におかれた大学病院において、診療科の科長は、それに対応する大学の講座の教授が兼務することになった。結果、研究優先、臨床後回しのカルチャーが固められた。そして、明治にできたこれらのシステムが21世紀の今に至るまで残ってきた、というわけです。
『大学病院革命』
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