加藤のメモ的日記
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| 2011年07月01日(金) |
キューリーとベクレル |
1896年、ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線がが発生することを証明するために、毎日実験を繰り返していた。ある時、曇り空のために実験を中止したベクレルは、ウラン化合物を写真乾板と一緒に机の引出しにしまう。数日後、引き出しを開けた彼が見たものは、光に当てていないにもかかわらず黒く感光した乾板であった。犯人は、ウランが発する放射線だった。人類が放射線を発見した瞬間である。その意義を神奈川大学の常石教授はこう話す。「物理学の歴史では、放射線の発見は、17世紀のニュートン力学、19世紀の電磁気学、20世紀の量子物理学とならぶ重要な出来事です」現在の感覚からすれば、引き出しに有害なウランをしまっていたとは仰天だが、世紀の大発見はこんな偶然から生まれたのだ。
放射能は「夢の新薬」だった
このベクレルの発見に目をつけたのがマリー・キュリー、キューリー夫人である。当時新しい論文のテーマを探していた彼女は、夫に「面白そうじゃないか」と勧められたことと、「新分野だから他の文献を読まなくて済みそう」という理由で、ベクレルの研究を論文のテーマに選んだという。1897年から1902年の間、マリーは夫の物理学者ピエールと、パリの学校から与えられたボロボロの物置小屋で実験に明け暮れる。ウランを含む、クズ鉱石を手作業で砕き、運び、さまざまな化学薬品を使って不純物を取り除く作業に二人で没頭した。
放射性物質を含む大量の粉じんと有毒ガスにまみれての作業だったが、のちにマリーは当時を「研究に没頭できてとても幸福だった」と振り返っているという。放射能にまみれながらキュリー夫人はボロニウムとラジウムという新たな放射性元素を発見する。放射能時代の幕開けである。女性研究者の偉業を、当時のメディアはこぞって「世紀の大発見」ともてはやし、彼女の研究室には報道陣が殺到したという。そして1903年、キュリー夫妻とベクレルは、放射能発見の業績によりノーベル物理学賞を受賞する。
「19世紀末から20世紀にかけては、物質の根源をたどる研究が隆盛でした。この時代に重要な発見が相次いだのですが、当時の物理学者や科学者は、自分の発見を応用することは考えていなかった。ギリシャ哲学以来の伝統で、自然の成り立ちを知りたい、真理をつかみたいというのが研究の動機でした」光り輝く放射性物質は、人類に幸せをもたらす魔法の物質、夢の新薬のように喧伝され、さまざまな商品がつくられることになる。
その狂騒ぶり記す『被爆の世紀』(キャサリン・コーフィールド)には、数々の実例が挙がっている。コロンビア大学の薬学部長は、ラジウムを肥料にすれば『味の良い穀物を大量につくれる』と主張したという。薬剤師はウラン薬やラジウム薬を薬局の棚に並べ、また医師たちもラジウム注射のような放射性物質を使った治療法を次々と開発し、糖尿病、胃潰瘍、結核、ガンなどあらゆる病に活用しようした。
ほかにも、膨大なラジウム関連商品が欧米で販売されている。放射性歯磨き、放射性クリーム、放射性ヘアトニック、ラジウムウォーター、ラジュム入りチョコバーなど。「ラジウムはまったく毒性をもたない。天体が太陽光と調和するように、ラジウムは人体組織によく調和する」これは当時の医学雑誌『ラジウム』(1916年)の一節だ。当然のことかもしれないが、放射性物質の危険性に対する意識は、まったくのゼロだったのである。
放射能を恐れていなかったという点では、キュリー夫妻やベクレルも同じだった。立命館大学名誉教授の安西氏が説明する。「ベクレルはマリーからもらった塩化ラジウム入りのガラス管をいつもポケットに入れて持ち歩き、人に見せびらかしていました。彼はノーベル賞受賞から5年後に、被ばくが原因といわれる心疾患により55歳で亡くなっています。キューリー夫妻も、発見当時はそれが人体に害をなすなど、思ってもいなかった」
当時、ラジウムの価格は1グラム約10万ドル。「ラジウム成金」まで生まれるブームの一方、膨大な数の被爆者が出たのは悲劇というべきが。ラジウムを扱う工場労働者や医療関係者に白血病で亡くなる人が相次いだが、多くは梅毒や肺血症と診断された。放射能が人体に害をもつことは1920年代には少しずつ解明されていくが、マリー・キュリーは自身の体調不良が放射線によるものとは決して認めなかったという。だが、彼女も1934年に再生不良性貧血で亡くなってしまった。「マリーが遺した研究ノートは放射能まみれで、今でも触るのは危険だといわれています。晩年は放射線で目に障害を起こし、弟子の大学院生が持ってきたグラフが二重に見えるような状況でした」
暗黒の歴史が始まった
放射性物質を発見して得た名誉。しかし、彼女はその代償として、放射能で命を落としてしまう。人類にとって危険をもたらす放射能を発見してしまった。彼女の運命がここに見てとれる。死後、「放射能の父と母」とした崇められたベクレルとキュリー。キュリーは1964年、ベクレルは1975年に放射能の単位として科学史に名を残した。キュリーの娘・イレーヌとその夫は第二次世界大戦後にフランス原子力委員会委員と委員長に任命される。だが、このイレーヌも白血病で命を落とすのだから、何とも皮肉な話である。
ちなみに放射能のもう一つの単位「シーベルト」は、スウェーデンの物理学者で放射線防護の専門家、ロルフ・シーベルトからとられている。ベクレルとシーベルトに直接の交流はなかったが、シーベルトの生まれた年は放射線が発見された1896年と聞けば、何やら運命めいたものを感じないでもない。ベクレルと、キュリーの発見をもとに、新世代の天才たちが原子の力に注目し、悪魔の兵器と制御不能の原子炉が生み出されるのだ。放射性物質は核分裂を起こすことで莫大なエネルギーを生み出す。これを兵器に変えようと、キュリーの死の前後から、急速に研究・開発が進んでいくのである。
1930年代には、ドイツのオットー・ハーン、ハンガリー出身でアメリカへ亡命したレオ・しらーどらが、ほぼ時を同じくして核分裂と連鎖反応の仕組みを着想した。原爆と原発は、この仕組みを利用した双子の技術だ。瞬時に反応を起こせば原爆となり、時間をかけてゆっくり反応を進めていけば原発になる。ナチスドイツによる原爆開発を危ぶむシラードは、アインシュタインの仲介でルーズベルトに”新型爆弾”開発の直訴状を出した。これがやがて、広島と長崎を襲った原爆の開発につながった。
その後アメリカは原爆を広島と長崎に実戦投入。9年後の1951年には世界初の原子力発電を成功させる。以来、人類はまともに制御できない原発と付き合うという”暗黒の歴史”を突き進むのである。おそらく放射能の発見は必然だった。そして科学者は科学者で、それぞれに苦悩を抱えてもいたのだ。原発が身近な脅威となった今、『知性の限界』で知られる高橋昌一郎國學院大学教授の見解もこれに近い。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない。まずはそのことを認めるべきです。リスクを負ってまで開発すべきか、最終的には自分たちで議論して決めるしかない」
ピエール・キュリーは、1905年のノーベル賞授賞式でこう述べている。「ラジウムが悪の手に渡れば、世の中に危害をもたらすでしょう。危険かも知らないこの知識を、我々はきちんと受け止めることができるだろうか」
『週刊現代』
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