加藤のメモ的日記
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2011年06月15日(水) 田老と津波 (35)

三陸沿岸地方は、文明の恩恵から見放された東北の僻地にすぎなかった。深くくいこんだ無数の湾内には小さな漁村が点在していたが、内陸部と通じる道路はほとんどなく、船を便りとした海上連絡があるのみで、各町村は、陸の孤島とでもいえるような孤立した存在であったのだ。三陸沿岸地方は、豊かな魚介類の資源に恵まれていた。沖合を流れる黒潮は多くの魚群を群れさせ、複雑な線をえがく海岸の岩礁は、タコ、貝類、ウニ、海草の一大生息地ともなっていた。が、消費地から遠いため運送という障害にさまたげられ、さらに天候に支配された不漁にもしばしば見舞われて、漁村は概して貧窮の中に呻吟していた。

その年の梅雨期は気温が異常に高く、漁民は湿気になやまされてあえいでいた。それに漁が例年になく不良で、かれらの表情は一様に暗かった。と、6月に入った頃から、三陸沿岸一帯に著しい漁獲がみられるようになった。それは日を追うにつれて急激に増し、漁民の顔は明るく輝いた。さらに6月初旬をすぎた頃になると、漁獲量は途方もない量となった。各漁村の古老は、そのおびただしい魚の群れに唖然とし、「前例をみない大漁だ」と驚嘆するほどだった。

当時の大豊漁については、現在87歳の高齢で岩手県下閉伊郡田野畑村に住む早野幸太郎氏がよく記憶している。氏はその年に13歳であったが、早野少年の目にも、その折の大豊漁は奇異な印象として焼きつけられた。早野氏の生家は網元で、数多くの定置網を海面に張っていた。氏の記憶によると、6月10日頃から本マグロの大群が、海岸近くに押し寄せてきたという。田野畑村は、思わぬ魚群に歓びの声をあげた。網の中に、マグロがひしめきあいながら殺到してくる。

網は、マグロの魚体で泡立った。マグロは、出口をもとめて網の壁に沿って一方向に円をえがいて泳ぐ。その光景は、壮観さを越えたすさまじいものだった。漁船に乗った早野少年は、マグロの群れが網の内部をウナリをたてて素早い速度でまわっているのをみた。その勢いで、網の内部には大きな渦が生じ、中央部の水面は深くくぼんですり鉢状にさえなっていたという。漁船は、それらの網からマグロを引き上げ、今にも沈みそうになるほど満載して海岸にたどりつく。そして、マグロを岸に揚げて引き返すと、すでに網の中にはマグロの大群が激しい渦を起こして泳ぎまわっていた。

岸は、たちまち魚体でおおわれた。村の者たちは、老人や女をはじめ子供まで加わってマグロを箱に入れていった。が、後から後からマグロが陸揚げされるので、入れる箱もなくなってしまった。村では有力者たちが集まって種々協議の末、村内を流れる大須賀川をせきとめてそこにマグロを収容したという。「大漁も大漁。あんな大漁は生涯聞いたことも見たこともない」と、早野氏は述懐した。このような大豊漁は、むろん田野畑村だけではなく三陸海岸一帯に共通したものだった。漁は、マグロ以外にもイワシやカツオが処置に困惑するほどとれたという。ことにイワシの大漁は、各地でみられた。

一例をあげると、青森県鮫村から湊に至る海岸では、その年の不漁に悩んでいたが、5月下旬ごろからイワシの大群が押し寄せてきた。その量は想像を絶したもので、海面はイワシの体色で変化して一面に泡立ち、波打ち際も魚鱗のひらめきでふちどられたほどだった。漁民は、大いに喜んでイワシ漁に精出した。しかし、その異常な大漁は40年前の安政3年(1856)に戦慄すべき災害が発生していたのだ。安政3年7月23日、北海道南東部に強い地震があり、家屋の倒壊が相ついだ。その地震の直後、青森県から岩手県にかけた三陸沿岸に津波が襲来し、死者多数を出している。その津波が海岸線を襲う以前に、漁村はイワシの大豊漁ににぎわった。つまりその40年ぶりの大豊漁は、津波襲来の不吉な前兆である可能性も秘めていたのだ。

事実、その豊漁と並行して、多くの奇妙な現象が沿岸の各地にみられた。青森県上北郡一川村付近では、連日夜になると青白い怪しげな火が沖合に出現した。村民たちは、稲妻かまたは怪しげな狐火の類だろうと噂し合っていたが、この現象は魚群の来襲と無関係ではなかった。つまり海に、なにかいちじるしい変化が起こっていたのだ。潮流に乱れが起こっていたという事実もあるし、水温の急変があったとも伝えられている。理由はさだかではないが、それらの海中の変調の影響をうけて、魚は群れをなして海岸近くに移動し、また怪しげな火が一川村沖合にも出現したのだ。

岩手県来た閉伊郡磯難村では、安政3年の津波襲来前に川菜と称する海草が濃い密度で磯をふちどるという奇現象があった。それ以後川菜は長い間絶えていたが、数ヵ月後から川菜が磯に生えはじめ、安政3年の津波を知っている古老たちは、津波の前ぶれではないかと会う人ごとに警告していた。またその年の3月頃から三陸海岸一帯に、ウナギの姿が多くみられた。死骸の群れが漂着して処置に困った漁村もあれば、磯に押し寄せたウナギを捕えて思わぬ漁獲に喜んだ漁村もあった。一日磯に出れば一人で200尾程度とらえるのは容易で、鳥が砂をクチバシで掘り起こしてウナギをついばむ光景も見られたほどだった。

このウナギの発生も、安政3年の津波襲来直前にみられた現象で、ウナギの群れを不吉な前兆としておそれる老人もいた。さらに6月12,3日ごろになると、潮流に乱れが認められた。ことに宮城県本吉郡志津川町では、漁船が変化した潮流で岸にもどるのに困惑したという報告もあった。また沿岸一帯の漁村では、井戸水に異変が起こっていた。岩手県東閉伊郡宮子町に例をとると、6月14日から60メートルの深さも持つすべての井戸の水が、一つ残らず濁りはじめた。その色は白か赤に変色したもので、人々はその現象をいぶかしんでいた。




被害は、明治29年の大津波襲来の折と同じように岩手県が最大であったが、その中でも下閉伊郡田老村の場合は最も悲惨を極めた。明治29年の折には、田老、乙部、摂待、末前の四字のうち、海岸にある田老、乙部が全滅している。田老、乙部の全戸数は336戸あったが、、23メートル余の高さをもつ津波に襲われて一戸残らずすべてが消失してしまった。人間も実に1859名という多数が死亡、陸上にあって辛うじて生き残ることができたのはわずかに36名のみであった。なお、この他に難をまぬがれた村民が60名いる。それはその日15隻の船に乗って沖合8キロの海面に出ていた漁師たちで、マグロ漁に従事していた。その猟師たちは、津波の発生時刻に突然陸地のほうで汽車の爆走するような轟音を聞いた。

彼らは、顔を見合わせた。何か大異変が起こったに違いないと察して、網を急いで引き上げると力を合わせて陸地のほうへ漕ぎ進んだ。その途中、三度の大激浪に遭遇した。無数の材木が流れてきて、その上波も高く入港することはできない。やむなく港口で碇をおろし、陸地のほうをうかがっていたが、全村の灯りはすっかり消えていて、しかも、「助けてけろ―」という声がかすかに聞こえてくる。漁師たちは顔色を変え、家族の身を案じて救助におもむこうとしたが暗夜と高波のため岸に近づく手段もなく、ようやく夜が明けてから港に入った。

彼らの目、悲惨な光景が映った。人家は洗い去られて跡形もなく、村は荒涼とした土砂と岩石のひろがる磯と化していた。彼らは陸に上がり村落の全滅を知ったが、極度の驚きと悲しみで涙も出なかったという。そのような打撃を受けた田老村は、その折の災害から37年たった昭和8年に、またも津波の猛威によって叩きつぶされたのだ。昭和8年3月3日午前2時30分ごろ、田老村の住民は、はげしい地鳴りをともなった地震で眼をさました。家屋は音をたてて振動し、棚の上の者は落ちた。時計は、どこの家庭でも止まってしまった。かなり長い地震で、水平動がつづいた。

人々は、十年来経験したこともない強い地震に不安を感じて戸外へとび出した。地震のため電線が切れ、全村が停電した。遠く沖合で、大砲を打つような音が二つした。たまたま村の近くで道路改修工事がおこなわれていたので、人々は工事現場で仕掛けたハッパの音にちがいないと思った。地震がやみ、電灯がともった。人々はようやく気持ちも落ち着いて、それぞれの家にもどったが、再び大地が揺れて電灯が消えてしまった。

不安が、人々の胸にきざした。明治29年の大津波の記憶は生々しく、老人たちも「こんな時には、津波がくるかも知れない」と、口にした。注意深い男たちは、戸外に出て津波の前兆ともういうべき現象があらわれていないかをたしかめた。津波襲来前には、川の水が激流のように海へと走る。井戸は、異常減水をする。海水は、すさまじい勢いで沖合に干きはじめる。人々は、灯を手にそれらを注意してみてまわったが、異常は見出せなかった。

彼らの不安は消えた。津波は、地震後に発生するおそれがあるが、その気配はない。人々は家にもどると、冷えきった体をあたためるため炉の火をかき起こし、もう一眠りしようとふとんにもぐりこんだ。静まり返った村内に、突然沖から汽船の警笛が余韻をひいて伝わってきた。それは、なにか異変を告げるような不吉な音にきこえた。一部の家では、その音に人々がとび起きた。

「津波が?」という言葉が、「津波だ!」という言葉として近隣にひろがっていった。たちまち村内は、騒然となった。家々からとび出した人々は、闇の中を裏山にむかって走り出した。人の体に押されて倒れる者、だれかれとなく大人にしがみつく子供たち、土の上を這う病人、腰の力が失われて座り込む者など、せまい路上は人の体でひしめき合った。

その頃、黒々とそそり立った津波の第一波は、水しぶきを吹き散らしながら海上を疾風のようなすさまじい速度で迫っていた。湾口の岩に激突した津波は、一層たけり狂ったように海岸へ突進してきた。逃げる途中でふりむいた或る男は、海上に黒々とした連なる峰のようなものが飛沫をあげて迫るのを、見たという。津波は、岸に近づくにつれて高々とせり上がり、村落におそいかかった。岸にもやわれていた船の群れがせり上がると、走るように村落に突っこんでゆく。家の屋根が夜空に舞い上がり、家は将棋倒しに倒壊してゆく。

やがて海水が、逆流のように急激な勢いで干きはじめたが、沖合には、すでに第二波の津波が頭をもたげ進み出していた。たちまち第一波のもどり波と第二波の津波が海上で激突した。高みにのがれてその光景を見つめていた或る者は、その二つの波の衝突によって高々と水沫が海上一帯に立ちのぼり、ちょうど巨大な竜巻をみるようだと語った。この第二波の津波が最大で、倒壊した人家と多くの人々の体は沖合いにさらわれた。津波は第6波までつづき、次第にその勢いを弱めた。

寒気はきびしく、山上にのがれた人々は焚火をして暖をとった。逃げおくれて負傷した者たちは、寒さに体の自由もきかず凍死してゆく者が続出した。夜が開けた。田老は、一瞬の間に荒野と化し、海上は死骸と家屋の残骸の充満する泥海となっていた。田老、乙部は、わずかに数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけで、村落すべてが流出していた。死者は911名、流出した人家は428戸に達した。また一家全滅も66戸あった。その人数は333名で絶家となったのである。その他、道路、橋梁、堤防などが跡形もなく破壊され、漁船909隻が流出した。

田老村に次いで被害の甚大だったのは、岩手県気仙郡唐丹村本郷であった。この村落は、完全な壊滅状態におちいり、全戸数101戸中、、実に100戸が流出、残された1戸も全壊していた。死者も多く、全人口620名中、326名が死亡、21名が傷ついた。下閉伊郡小本村小本の被害も大きく、118名の死者、77戸の流出をみ、また釜石町でも234戸の流出、245戸の倒壊以外に、火災が発生し249戸が焼失している。戸の出火は、津波来襲後、町の中央部2か所から発したもので、津波がつづいていた頃であったため消火作業に手をつけられず、火災は目抜き通りを焼きはらい、その後の消火作業で午前8時30分ごろようやく鎮火した。幸いこの町では避難が早かったため、死者の数は29名のみであった。


『三陸海岸大津波』


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