加藤のメモ的日記
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| 2011年05月26日(木) |
論争とは泥仕合のことか (32) |
ごく最近出版された佐原真氏の著書『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)に出ていたことだが、縄文馬をめぐる大論争があったという。国立民族学博物館で開かれたシンポジウムで、国分直一氏がこの馬の存在について否定的な発言をすると、田中塚氏が出土した馬の骨に含まれるフッ素の分析結果に基ずいて、その発言に”あやしい”という表現で応じたという。
ところが、それに対し、「発掘をした野口義麿氏を信じないのか」とつかみ合いともなりそうな“すごいやり取り”があった。事実関係に関する論争でも、人を信じるか信じないかといったことで、事実についての問題から離れてしまい、科学に基ずいた議論ができなくなってしまうことがある。これもその一例である。
化石骨や石器など出土品については、発掘の手続きや方法によって、誤った結果をもたらすことのあることが佐原氏の著書にも示されているが、縄文土器と一緒に馬の骨が発見できたからといって、それらが同一時代のものとは直ちにいえないのは当然である。それなのにフッ素分析の結果に基ずいた発言に対し、つかみ合いのごとき激しい応酬があったとはおどろく。
日本では、学問的な事実を発言、発表をした人の人格やその地位との間の峻別ができていないので、事実に基ずいた論証でやり込められた場合でも、人格が汚されたとか、人の顔に泥を塗ったとかいったことになってしまう。これでは学問的な正しい論争などできはしないのである。非論理がまかり通って学問がやれるなどと考えているほうが、実はおかしいのである。
『大学の罪と罰』
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