加藤のメモ的日記
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| 2011年05月10日(火) |
海に汚染水を流すとは… |
中国は現在、原子力発電の能力を1080万kwまで高めていますが、それを2030年までに8000万kwまで増やそうとしている。さらに台湾も韓国も原発を増設しようとしています。そうしたなかで、もし日本が原子力の平和利用技術に対するこだわりを捨ててしまったら、日本はエネルギーにおける国際的な立ち位置を失ってしまう。原子力安全利用への貢献どころか、発言力を失って、どこからも相手にされなくなってしまいます。
今、IAEA(国際原子力機構)の事務局長は日本人ですけど、IAEAで一定の発言力を持ち、世界の原子力コントロールにおいて日本が役割を果たしていこうというなら、専門性の高い原子力技術の蓄積は不可欠です。つまり日本だけが原発から撤退する、あるいは距離をとることで何かが保たれるかといったらそうじゃないからこの問題は複雑なんです。
東北電力の女川原発は津波にも持ちこたえた。女川は大丈夫だったのに、なぜ東京電力の福島第一原発はやられてしまったのか。ここは重要ですよね。女川原発は海岸から15メートル高い所につくられていた。これは偶然だったのかというと、そうではなくて、明らかに津波を想定したものです。過去に何度も津波に襲われたエリアだから、15メートル高い所に設置しようと。これは東北電力の判断だったわけです。
それを想定しなかった東電は、津波に襲われて電源供給を断たれた。しかも万一の備えだったディーゼル発電機も、地下に配置していたために冠水して動かなくなってしまった。そして、最も肝心な放射性物質の漏洩が起きたらどうするかという想定もなされていなかった。
これはあってはならないという思いから、充分な布陣を敷いていなかったと言わざるを得ない。実際に放射能漏れを起こした時、緊急危機管理上どうするかを担当する専門家があまりにも脆弱だった。つまり、原子力を安全に維持、稼働させるための技術陣はそろっていたけれども、いったん多重防御が破られた後の対応能力に著しく欠けていたことを見せたのが今回の出来事です。
原発は儲かる。原発で大事故があったらもう終わりだが、そんなことはあり得ない、と思うことにしよう。‘68年の始め、福島の木村知事は、新聞記者を集めた新年の挨拶で誇らしげに語った。「すでに大熊町に建設州の福島第一原発に続き、東京電力は新たに富岡、楢葉両町に第二原発の建設を決定いたしました。さらに候補地の選定を進めていた東北電力も、浪江町を最有力候補とすることをこのほど決定いたしました。これによって『浜通りのチベット』といわれた双方地方が、世界一の原子力センターに生まれ変わるのであります」
大熊町で公務員をしていた男性(73歳)は、避難所で暮らす今、本誌の取材にこう語る。「子供の頃、第一原発があった海辺は子供たちの格好の遊び場でした。何もないけど、海で泳いだり虫取りをしたり、そういう場所だったんです、でも暮らしは貧しかった。いわきにあった炭鉱の恩恵を受けることもなく、経済成長の波にも乗り遅れ、町自体が過疎化していくことは子供心にもわかっていました」
その土地は戦争中、特攻隊の訓練場だった。終戦後、民間に払い下げられた時に、半分を堤康次郎率いる国土計画が買い取り、塩田として使用していた。そんな浜通りに‘60年、突如持ちあがったのが原発誘致の話だった。大人たちは一も二もなく飛びついた。町にカネが落ち、人が集まり、雇用が生まれる。反対の声が上がろうはずもなかった。
なぜ、東電は浜通りに目をつけたのだろうか。背景には‘60年に原子力産業会議が行ったある試算があった。日本初の原発となる茨城県東海村の東海一号炉が重大事故を起こした場合、死者720人、障害5000人、要観察130万人。お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都近郊には造れない。それが東電の判断だった。
原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で、他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットはほぼ自動的に浜通りに決まった。何のことはない。「危険すぎて首都圏には造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島県浜通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。
受け入れた町はどうなったか。双葉町の県議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4件5件と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。東電の100%出資の子会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。
また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚には餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタつぶれました」結局、潤ったのは最初の十年で数十億(現在の貨幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。それも、町役場やコミュニティーセンターなどの箱モノに消えた。広く整備された道路に立ちならぶパチンコ店とコンビニ。貧しくても住民同士支え合っていたかってのコミュニティーは、完全に失われた。
ただ、原発という巨大なシステムは、夢から覚めたからといって追い出すことはできなかった。原発反対運動を続けてきた元福島県議、伊東達也氏(70歳)が言う。「私らは‘04年から、大津波が来たら原発はもたない、と東電に訴え続けてきた。でも何も変わらなかったし、真剣に報じてくれるマスコミは一社もなかった。自分の無力さが情けなく、そして悔しくてならない。原子力産業は、産官学にマスコミと、すべてを掌握しながら進んでいったんです。今、東電は『想定外』を連発するけど、彼らには『ただあなた方が想定したくなかっただけのことです』と言ってやりたい」
最後に、大熊町の住民が呟いた言葉を記しておこう。「誘致が決まった時は皆で大喜びしたんだから、東電ばっかりを責める気持ちにはなれねえ。ただ、騙されたな、とは思う。事故はもちろんだけど、廃炉にするにも莫大な時間とカネがかかるなんて、そんな厄介なシロモノだなんて、俺ら住民は一人も知らなかったんだ」
『週刊現代』
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