加藤のメモ的日記
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2011年05月05日(木) 原発は儲かる

大熊町で公務員をしていた男性(73歳)は、避難所で暮らす今、こう語る。「子供の頃、第一原発があった海辺は子供たちの格好の遊び場でした。何もないけど、海で泳いだり虫取りしたり、そういう場所だったんです。でも暮らしは貧しかった。いわきにあった炭鉱の恩恵を受けることもなく、経済成長の波にも乗り遅れ、町時代が過疎化していくことは子供心にもわかっていました。

その土地は戦争中、特攻隊の訓練場だった。終戦後、民間に払い下げられた時に、半分を堤康次郎率いる国土計画が買い取り、塩田として使用していた。そんな浜通りに‘60年、突如持ちあがったのが原発誘致の話だった。大人たちは一も二もなく飛びついた。町に金が落ち、人が集まり、雇用が生まれる。反対の声が上がろうはずもなかった。

「私の家は先祖代々、米を作っていました。家族を養うのにもぎりぎりで、農閑期には出稼ぎしなきゃならない状態。そんな時に、『夢の原発』ですよ。誰もが疑いもせず飛びつきましたよ。だって、政治家も東電も『安全だ』って呪文のように繰り返すから……」こう語るのは福島県双葉町で建築業を営んでいた男性(61歳)だ。現在は避難生活を送っている。

日本で「反原発」の動きが生まれるのは、‘79年の米スリーマイル島原発事故以降のこと。‘60年といえば、マスコミを含め日本中が「原発は夢のエネルギー」と盛り上がっていたころだ。何せ、読売新聞社主の正力松太郎自らが原子力委員会初代委員長を務め、紙面でも「原発推進大キャンペーン」を張っていたのだ。浜通りの大人たちが反対しなかったのも、無理からぬことだった。

しかし、なぜ福島だったのか。スリーマイル島の事故以後、原発反対運動に身を投じた双葉町の住民が解説する。「建前は大熊と双葉が誘致に手を挙げたことになっていますが、それは順序が逆。‘55年に原子力発電課をスタートさせた東京電力が、すぐさま浜通りを第一候補としてピックアップしたのです」その背景には、当時、東電の「次期社長」と召されていたある人物の存在があった。

「当時副社長だった木川田一隆氏です。浜通りより少し内陸の伊達郡の出身地で、福島の地理には精通していました。県は県で、‘60年に原子力産業会議に加盟。浜通りの立地調査を開始した。時の佐藤善一郎知事と木川田氏のホットラインで、話はとんとん拍子に進んだんです。後に「東電方式」と呼ばれるやり方だが、第一原発が大熊、双葉という二つの自治体のまたがって造られることも早々と決まった。こうして「利権」を分散することで、多くの住民を籠絡する作戦だった。

佐藤知事は、大熊、双葉両町長を呼びつけて言ったという。「あんたら財政的に困ってんだろう。原発を誘致したらどうだ。固定資産税が入るし、将来、町の発展につながるんだから」

なぜ東電は、浜通りに目をつけたのか。背景には、‘620年に原子力産業会議が行ったある資産があった。日本初となる茨城県東海村の東海1号炉が重大事故を起こした場合、死者720人、障害5000人、要観察130万人。お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都圏には造れない、それが東電の判断だった。原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で、他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットは自動的に浜通りに決まった。

何のことはない。「危険すぎて首都圏に造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島浜通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。受け入れた町はどうなったか。双葉町議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4件5件と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。

東電の100%出資の子会社『東双不動産』という会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚に餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタと潰れました」

結局、潤ったのは最初の10年で数十億(現在の紙幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。それも、町役場やコミュニティーセンターなどの箱モノに消えた。広く胃腸整備された道路に立ちならぶパチンコ屋と混b位に。貧しくても住民同士支え合っていたかってのコミュニティーは完全に失われた。

ただ、原発という巨大なシステムは、夢から覚めたからといって追い出すことはできなかった。原発反対運動を続けてきた元福島県議・伊藤達也氏(70歳)が語る。「私らは‘4年から、大津波が来たら原発はもたない、と東電に訴え続けてきた。でも何も変わらなかったし、真剣に報じてくれるマスコミは一社もなかった。自分の無力さが情けなく、そして悔しくてならない。原子力産業h、産官学とマスコミと、すべてを掌握しながら進んでいったんです。今、東電は『想定外』を連発するけど、彼らには『ただあなた方が想定したくなかっただけのことです』と言ってやりたい」

大熊町の住民が呟いた言葉がある。「誘致が決まった時は皆で大喜びしたんだから、東電ばっかりを責める気持ちにはなれねえ。ただ、騙されたな、とは思う。事故はもちろんだけど、廃炉にするにも莫大な時間とカネがかかるなんて、そんな厄介なシロモノだなんて、俺ら住民は一人も知らなかったんだ」



『週刊現代』


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