加藤のメモ的日記
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2011年04月15日(金) 責任能力(25)

「社会に責任があるって、よく言いますやろ。あれ、どういうことですの?」兵庫県明石市にある割烹「一とく」のカウンター越しに、女将の曽我部とし子さんと私は話をしていた。お会いするのはこれで5回目になる。曽我部さんは、いつも私に何かをずばりと訊く。その瞬間、まず私の頭の中をよぎるのは、専門家ならこのように答えるだろう、けれどもそんな暗記しただけの”正答”に曽我部さんは納得がゆかなかったのだろうなあ、という脱力感である。

「本当に責任を取らなければならないものを半人前扱いにして、事件そのものを『なかったこと』にしたい時、社会に責任があるっていう言い方をするんだと思います」私はそのように答えた。もちろんまだ、曽我部さんは納得したふうではない。そんな簡単に納得できるわけがないのである。

1996年6月9日、長男の雅生君(当時24歳)が外出したのは午後一時。その一年半前から魚屋で包丁さばきを修業した後、「一とく」の三代目となる決意をして店を手伝っていた、雅生君を慕って若い常連客も増え、売り上げも順調に伸びて、とし子さんは前途有望な後継ぎに目を細めるばかりだった。雅生君が出掛けに「ゆっくり楽しんでこいや」と母に言ったのは、その日の午後、母がずっと以前から楽しみにしていた里見浩太郎ショーがあったからだ。

店から500mほどしか離れていないJR明石駅近くの繁華街の歩道で、一面識もない西島恭二(当時47歳)に雅生君がいきなり背中を刺されたのは午後2時30分だった。その5分後、さらに東へ50メートル離れた交差点で信号待ちしていた若い夫婦も西島に襲われる。西島は刃渡り18センチの包丁を振り回し、「殺したる」と喚きながら近づいてきた。とっさに身重の妻(当時20歳)をかばった夫(同20歳)は転倒してしまう。そこへ馬乗りになった西島は、男性の右わき腹を二度刺した。

大量出血のため雅生君が亡くなったのは、刺されてから40分後のことだった。「息子さんが救急車で運ばれた病院からの請求は、誰が支払ったのですか」と私は曽我部さんに尋ねた。「私です、ほんま、おかしいですよねえ」雅生君の医療費を、国は一銭も負担していない。二人を殺傷した西島は、通行人に取り押さえられた時、ちょっと怪我をした。その治療費は全額、国が負担している。

この年、日本全体で加害者には総計約46億円の国選弁護人報酬と、食料費+医療費+被服費に300億円も国が支出した。対照的に、被害者には遺族給付金と障害給付金を合計しても5億7000万円しか支払われていない。さらに私が調べたところ、西島は現行犯であるにもかかわらず、現場では逮捕されていない。パトカー先導の救急車で病院に運ばれ、自業自得で「10日間の怪我」を負っただけだなのに、明石署は殺人と殺人未遂の容疑で逮捕状を請求したものの、その軽い怪我が完治するまで逮捕もしなかった。

新聞各紙は10日の夕刊あるいは、11日の朝刊で小さな記事を掲げてはいる。「どうやら普通ではないらしい」との情報を明石署から得た記者たちは、被害者3人を実名報道しながら、凶悪犯の名を伏せた。《二人とも病院に運ばれ✽✽さんは2週間、男は十日間のけがをした》(朝日新聞96年6月10日夕刊)

記事中の❉❉には、信号待ちをしていて西島に襲われた若い男性被害者の実名が入っている。にもかかわらず犯人の実名は避け「男」または「土木作業員」とだけ書き、これで人権配慮記事一丁あがり、ということらしい。しかも《二人とも病院に運ばれ》の《二人》には、直後に絶命した雅生君が入っていない。犯人と被害者を仲良く《二人とも》などと併記する神経にも私はいらだつ。

不起訴になりそうだとの感触を得た記者たちは足並みそろえて取材を放棄し、神戸新聞を例外として、各紙とも続報を書いていない。芸能人ならのぞきや覚せい剤程度で執拗かつ大げさに続報を書くくせに(敢えてのぞきや覚せい剤程度と言っておく。殺人と比較した被害の実態に照らして、だ)。雅生君より3歳年下の次男隆徳さんは、葬儀の挨拶で、こう話している。「兄はこれから幸せになるはずでした」隆徳さんは留学中の米国から後日、母にこんな手紙を送っている。「加害者に対する最高の復讐は、被害者が幸福になることだと、自分は思っています」



『そして殺人者は野に放たれる』


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