加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will
| 2011年03月29日(火) |
言葉をこえる沈黙 (21) |
危険から守られることを祈るのではなく、 恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。 痛みが鎮まることを祈るのではなく、 痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。 人生という戦場における盟友を求めるのではなく、 ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。 恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、 ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。 成功の中にのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、 自分が失敗した時に、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。 ルビンドラナート・タゴール 『果実採り』より
患者の命が尽きるときがやってくる。痛みは消え、意識は遠のく。ほとんど何も食べなくなり、周囲のことも闇同然でわからなくなる。そういうとき患者の近親は、病院の廊下を行ったり来たりして、その場を去って自分の生活に戻るべきか臨終に備えて控えているべきか迷いながら、死を待つ苦しみに耐えている。もはや何を言っても始まらないが、言葉を使うにしろ使わないにしろ、近親がもっとも助けを求めているときでもある。医療が介入するには遅すぎる(よかれと思って介入したとしても、それはあまりにも残酷である)が、死にゆく人を完全に切り離してしまうには早すぎる。もう迎えが来てほしい。終わってほしいと思っているにせよ、永遠に失おうとしているものに必死にしがみついているにせよ、いずれにしても、家族にとっては最もつらい時である。
患者に対しては黙ってそばについてあげること、近親者に対しては必要な時にはいつでも求めに応じてあげられる事が必要な時でもある。
医師や看護師、ソーシャルワーカー、牧師は、こういう時に家族の葛藤を理解できれば、そして家族の中から最も落ち着いて臨死患者に付き添っていられるものを一人だけ選ぶ手助けができれば、こうした最後の時期に大きな力になれる。選ばれたものは事実上、患者のセラピストとなる。 あまりにも動揺の激しい者に対しては、誰かが患者の臨終まで付き添うからといって罪悪感を軽くして安心させればよい。そうすれば家族は、患者が一人ぼっちで死んだのではないとわかり、多くの人にとって見届けるのがむずかしい死の瞬間に立ち会わなくても、恥じたり罪悪感を持ったりせずに帰宅できる。
「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情を持った人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中の一つが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。
臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二も存在であることがわかる。そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。70歳を過ぎるまで生きられる人は多くないが、ほとんどの人はその短い時間の中でかけがえのない人生を送り、人類の歴史という織物に自分の人生を織り込んでいくのである。
『死ぬ瞬間』
|