加藤のメモ的日記
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2011年03月20日(日) 佐久間清太郎 (18)

「食器を受けた手なのですが、手錠がかかっていないように思えたのです。もしかすると、私が見誤ったのかもしれません。そんな気がしましたので念のためご報告します」髪の白い雑役囚は、複雑な表情をしていた。
野本は、雑役囚を炊事場にかえすと、巡視している同僚の藤原看守にそれを告げ、二人揃って詰所にいる日直の看守長に報告した。網走刑務所に移送されてきてから、すでに手錠を合鍵ではずした過去を持つ佐久間だけに、雑役の口にしたことは事実に違いないと推測された。
 彼らは、すぐに詰所を出たが、近づくのに気付いた佐久間が再び手錠をはめてしまうことも予想された。現場を抑えるには、一人が足音を忍ばせて近づき、不意に視察窓を開けねばならなかった。
 野本がその役割を引き受け、靴を脱いで廊下を静かに進み、佐久間の房に近寄ると視察窓を勢いよく開けた。内部を身じろぎもせず見つめていた野本が、廊下に立つ看守長たちに手をあげた。
 彼らは走り寄り、鉄扉の錠を開けて内部に入った。佐久間は無表情な顔で食事をしていた。箸をつかんだ右手には手錠の環がなく、左手の手錠についた鎖から垂れていた。
野本が怒声をあげて佐久間の頬を殴り、腕をつかむと立ち上がらせた。食器が床に落ち、食物が散った。荒々しく検査が行われ、腋の下から短い針金が落ちた。口、鼻、耳、肛門もさぐられたが、それらからは何も発見されなかった。
 佐久間は引きすえられ、新たに持ってきた手錠がはめられた。
 その直後、佐久間は、力を込めて両手首をねじるようにし顔を紅潮させた。看守長たちは、一瞬、その動作の意味がわからず、いぶかしそうに見つめていたが、両手にはめられた手錠をつなぐ鉄鎖が音を立てて切れるのを目にした。
 野本たちは呆然と立ちすくみ、うろたえたように捕縄で佐久間の体をきつく縛った。そして再び新たに持ってきた手錠をうしろ手にはめた。その間、佐久間の顔に表情らしいものは浮かんでいなかった。
 野本がなぐり、針金の入手経路を問うと、佐久間は以外にも率直に、
「運動の時」
と、答えた。
 鉄扉がとざされ、看守長は刑務所長室に急いだ。
 報告を受けた所長は、看守長たちを召集し緊急会議をひらいた。
 日直の看守長の報告に、所長をはじめ看守長たちの顔にははげしい驚きの色が浮かんでいた。彼らは、こわばった表情で言葉を交わし、事故の内容について検討した。
 まず佐久間が、針金一本だけで容易に手錠の錠をはずせることが再確認された。視察窓からひんぱんに房内をのぞくことをくりかえしている藤原、野本両看守と夜勤の看守からは、異常を発見したという報告はないが、その間、手錠をはずしていることが多いのではないか、と考えられた。殊に、夜間、ふとんの中で両手を自由にして寝ている可能性が十分にあった。5月31日の事故の折には、はずした手錠を故意に食器差し入れ口から廊下に出しておいたが、その場合と同じように手錠のない右手を雑役の目にわざとふれるようにしたことはあきらかで、手錠が無意味なものであることを誇示しいたものと判断された。
 針金の入手方法については、運動時間中しゃがむことを禁じているので、地面に落ちていた針金をひそかに草履にさしこみ房内に持ち込んだに違いない、と推測された。
 テーブルの上に鎖の切断された手錠が置かれ、看守長たちは、それを見つめた。鎖は人力では到底ねじ切れるものではなく、それを難なくはたした佐久間が、常人には想像のつかぬ体力を備えた男であることを知った。 100

佐久間は、ただちに札幌刑務所の特別房に戻された。死刑をまぬがれたかれは、安堵したらしく珍しく上機嫌であった。夜、ふとんに身を横たえて郷里の民謡を口ずさんだりしていた。
 しかし、十日ほどたった頃から佐久間の態度が悪化した。かれは、意識的に再び頭からふとんをかぶって眠る。看守が声をかけ、頭を出すように言うと上半身を起こし、するどい目を向ける。なおも注意すると、
「またおれを逃がしたいのかね。コンクリートでかためようと、おれには脱獄することなどたやすいのだ。逃げて、あんたの家族を皆殺しにするが、それでもいいのかね」
 と、言ったりした。
亀岡は、担当看守たちにささいなことでも必ず報告するよう厳しく命じていたが、それらの佐久間の言動を看守からきき、脱獄の気配は濃いと判断した。
「決して佐久間に負けるな。少しでも気持ちがゆるんだら、それは奴の思う壺なのだ。規則違反は絶対にゆるしてはならぬ」
 かれは、看守を強い口調ではげました。
 看守たちは、時折り梯子にのぼって上方の視察窓から房内をのぞいた。佐久間は、敵意のこもった眼で看守を見あげていた。
 同じ刑務所で二度も囚人の脱獄をゆるすことは重大問題であった。亀岡は、所長と時々協議して佐久間の動きを検討し、毎日の検身と独房捜検にも立ち会うことにつとめた。検身ををうける佐久間は不機嫌そうで。声をかけても返事をしなかった。
 亀岡は、検身の折に佐久間をさとした。
「お前は、ふとんを頭からかぶるのを注意されるのが嫌いなようだな。しかし、それは絶対に守らねばならぬ規則なのだ。ふとんをかぶっていると、もしも収容者が自殺をはかった場合、発見できぬ。いわば、その規則は収容者の自殺防止のためなのだ。そんなことは、お前もよく知っているはずだ。看守たちを困らせるようなことはするな」
 かれは、甲高い声で言った。
 佐久間は、しばらく黙っていたが、
「わたしは、獄を破ることはあっても自殺などしませんよ」
 と、冷笑するように答えた。
 亀岡は、佐久間の精神状態が不穏であることをあらためて感じた。

……
 事件は、その年の4月8日午前2時ごろ起こった。
 雑貨商浦川鶴吉方に覆面した二人の男が忍び入り、店内を物色中、隣室に就寝していた養子の由蔵が物音に気付き、泥棒、と叫んだ。男たちは逃げたが、腕力に自信のある由蔵は裸足のまま追いかけ、一人を捕えて組み伏せた。他の男は、共犯者が捕らえられれば自分の罪も発覚すると考えたらしく、引き返してくると手にした日本刀で由蔵の背中を斬りつけ、組み伏せられた男も下から短刀で刺し、盗んだ手袋とキャラメル数個を落として逃走した。由蔵は、青森衛生病院に運ばれ手当てを受けたが、右背部から肺臓に達する傷が致命傷になって6日後に死亡した。

……
 無期刑囚も、服役中に事故を起こさなければ、入所してから10年後には仮釈放の検討対象となる。が、脱獄を重ね、しかも逃走罪で3年、加重逃走・傷害致死罪で10年の刑を加算されている彼は、常識的に考えて一生涯刑務所で過ごさねばならぬ立場にあった。
 しかし、と、鈴江は思った。法律的にはそれがまったく絶望とは言いきれない。原則として第一の刑の執行が終了しないければ第二、第三の刑の執行に移れない。佐久間の場合、第一刑が無期なので、死ぬまで刑務所で服役していなければならなかった。
 それを検事の裁量によって無期刑の身で服役している者と同じ扱いにしてもらうことが許されれば、途中逃走したことによって中断はしているが刑務所内で10年余りを過ごしているので、あと4,5年で刑の執行終了の措置をうけることができる。
 ついで10年の刑と3年の刑の執行にうつり、それぞれ3分の1を過ごせば刑の終了措置が取られるので、その期間を過ごせば一応仮釈放される資格を得られることになる。

彼は、山谷で骨身惜しまず働いたので、特定の建設業者から入社するよう執拗に勧められたが、自由の身でありたいという気持ちからそれに応じなかった。
 正月に鈴江の家を訪れることは続き、彼は、不幸な少年時代、家族関係を口にし、脱獄時のことも笑いを含んだ目で話した。その折、釈放後、一度故郷へ足を向けたが会うのを拒むものが多く、空しく帰郷したことを暗い表情でもらしたりした。かれは、鈴江の妻が出す正月料理をうまそうに食べ、夕方、丁重に礼を述べて帰っていった。
かれは老い、心臓疾患にもおかされるようになった。労働ができなくなり、保護観察所のあっせんで府中市の司法保護会安立園の老人寮に収容された。その後、病状が思わしくなく保護観察所員がつきそって都内にある三井記念病院に入り、治療を受けて退院した。
 一時は小康状態にあったが再び悪化、府中市内の病院に入院した。
 鈴江が佐久間の死を耳にしたのは、昭和55年秋であった。73歳で、佐久間の遺志により遺体は献体されたという。



『破獄』


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