加藤のメモ的日記
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| 2011年03月13日(日) |
「純文学」という言葉はなしとしよう |
もちろん「純文学」と呼ばれる作品を貶めるつもりなど全くない。正確に表現するなら、『純文学』という言葉を使うことをやめにしよう」ということだ。日本の文学界には「純文学」という枠組みが厳然と存在している。「純文学作品」と呼ばれた瞬間、そこには純粋なイメージ、つまり人間の真実を追求し、なおかつ芸術的であるという印象が生まれる。
純粋な作品というものが実在するのかどうかはさておき、純粋な作品というカテゴリーがあれば、不純で大したことのない作品という分類が否応なく出来上がってしまう。しかし、純文学と対極にあるとされる藤沢周平、山本周五郎、司馬遼太郎は不純なのだろうか。あるいは五木寛之、井上ひさし、もしくはユニークな仕事で名をなした星新一はどうだろう。
彼ら「が大し作家」ではないという日本人はおそらくいないはずだ。にもかかわらず、「国民的な広がりを持った小説は純なものではない」という雰囲気が覆っている。事実、新聞の文芸時評ではいまだに純文学しか取り上げないし、エンターテインメントを論じる紙面はほとんど目にすることがない。
作品を特定の枠組みに嵌めこもう(はめこもう)とする傾向は、日本の文学が持つ可能性を極端に狭める。その結果、本来の純文学が豊かにならないばかりかそれ以外の文学も正当に評価されにくい。百歩譲って、国内だけのことなら目をつぶることもできる。問題は海外で正しく評価されていないという点である。そもそも海外には文学を純文学とエンターテインメントに分けるという発想がない。あるのは「良い文学」と「悪い文学」だけである。
残念ながら、海外で研究される日本の作品の多くは純文学だ。日本の文学を紹介する人が純文学ばかりを語るからである。当然、評価もそちらに偏る。その結果、「日本の正当な文学は純文学作品であり、そこには人間というものを追及し、社会の矛盾を問いかけ、なおかつ、高い芸術性を持っている」という先入観が植え付けられてしまった。たまにエンターテインメントが読まれても評価は低い。五木寛之の作品の不当に低い評価には唖然とするばかりだ。
その結果、「日本の正当な文学は純文学作品であり、そこでは人間というものを追及し、社会の矛盾を問いかけ、なおかつ高い芸術性を持っている」という先入観が植えつけられてしまった。たまにエンターテインメントが読まれても評価は低い。五木作品。井上作品の不当に低い評価には唖然とするばかりだ。
そもそも文学には俗っぽいところもあるし、楽しく読ませることも必要だ。そうした要素の少ない純文学ばかりが紹介されているため、「日本の小説は面白くない」という印象を持たれている。ここに日本の文学が海外で正しく評価されない一つの理由がある。日本には愉快でワクワクする作品がたくさんあるのに残念でならない。
国内の文学を取り巻く状況に目を向けるなら、芥川賞と直木賞の問題を避けて通ることはできない。多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。かってはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。
にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つだろう。私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んできたし、直木賞の選考委員という立場もある。したがって私の考えは一方的なのかもしれない。
それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が親しまれることを阻害する要因だと思う。純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。
『週刊ポスト』 阿刀田 高
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