加藤のメモ的日記
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2011年03月10日(木) 新撰組(16)

近藤らは新撰組の処遇に不満であった。役不足という意識が強かった。自分たちは「尽忠報国の有志」として幕府の召集に応じ、はるばる京都から上ってきた者である。ふさわしい仕事を与えられると思っていたのに、市中見回りをやらされている。当て外れであった。見廻りなどをするために募集に応じたのではないという言葉は本音である。

不当に軽視されていると感じていた。もし将軍が帰府してしまったら、今の不安定な身分のままで京都の巷に取り残される。いっそのこと、解散を命じてくださるか、隊士一人一人を帰らせて下さるか、どちらかにして頂きたいと切り口上になっている。表面は待遇改善要求であるが、心の底のもっと深いところは、今していることは何か初志と違っている。志と反しているという真剣な思いがあった。こんなはずではなかった、こんな風には使われたくなかった。自分たちは尊王攘夷の一員であり、ただ浪士狩りの爪牙(そうが)だけに甘んじるいわれはなかった。

解散やむなしの気分を吹き飛ばしたのは、元治元年6月5日の池田屋事件であった。この大量殺傷は、尊王諸藩の新選組観を根本から変えた。それまではたかが壬生浪士という侮りがあった。池田屋事件で勤王浪士の重要人物を何人も失った後は、恐るべき強敵という認識が生じ激しい憎悪の対象にされることになった。

新選組は引き返し不能の一点を越えたのである。斬るか斬られるかしかなくなった新選組が幕府=会津藩権力に一層深く組み込まれてゆくのは、必至の成り行きだったといってよい。政争の激化で武力集団の需要が高まり、新選組が「治安警察」の地位を確立するにつれて、資金も潤沢になり、幹部の身分も上がっていった。

極力、政治を排除して純粋に剣で生きる。この初心は新選組が強大な組織になった後も、埋めた井戸の底の水面のようにじわじわと滲み出すのをやめなかった。脱退は隊規によって死罪だったが、逃亡する者は絶えず、成敗される者も多く、後に伊東甲子太郎一派が分裂するのも、根本には新選組の現状が初心に反するという違和感があったからである。元治2年(1185)2月26日、真因は不明だが、試衛館時代からの仲間だった山南敬助が脱走を図り、途中から連れ戻されて切腹し、沖田総司に介錯されるという悲劇もその一駒として起きた事件であった。  

慶応3年、総司の病状はとみに悪化したと見え、12月18日、近藤が伏見街道で狙撃された日も寝込んでいて動けなかった。年が改まってすぐ始まった鳥羽伏見の一戦にも出陣できなかった。敗残の新撰組が江戸の戻る富士山丸では負傷した近藤と枕を並べて運ばれ、相変わらず冗談を言っては周囲の隊士たちを笑わせ、あとで咳が出て苦しんだ。「あんなに死に対して悟りきった奴も珍しい」と近藤は家族に話したそうだ。

慶応3年3月1日、近藤は捲土重来を期し、甲陽鎮撫隊を率いて甲府に新発する。それに先立つ2月28日、近藤は千駄ヶ谷の植木屋の離れ座敷を訪れ、骨と皮ばかりになっていた総司と惜別した。それが最後になった。甲陽鎮撫隊は一敗地にまみれ、下総流山で捕えられた近藤勇は4月25日、板橋で斬首された。病人への気遣いで総司には知らされなかった。土方歳三は、大島慶介の脱走歩兵隊に合流して北へ去った。総司がひっそりと死んだのは5月30日である。

現在の沖田総司像はことごとく「司馬総司」であるといっても過言ではない。山根貞夫が、その後、原作の司馬遼太郎の小説『新選組血風録』『燃えよ剣』を読み、びっくり仰天した。そこで豊かなイメージを持って描かれている沖田総司にはまるで無垢な明るさが満ち満ちているのである。

天保13年(1843)江戸麻布の白河藩下屋敷で生まれたと伝えられる総司は、10歳ごろから市ヶ谷甲羅屋敷にある天然理心流道場試衛館の内弟子になり、近藤周助に剣を学んでめきめき頭角を現した。同家に養子に入った近藤勇、高弟の土方歳三、山南敬助、永倉新八などに伍して腕を磨き、多摩地方にも出稽古に行った。その並々ならぬ技量は「この人、剣術は晩年必ず名人に至るべき人なり」と衆目の一致するところとなっていた。

下澤寛の文章は「ある日、沖田が道場で突き技の稽古をしていた。彼は突きの危険性を十分に承知していて、突き出すよりも、いかに素早く引くかの練習に専念していた。総司の本領は道場剣法ではなかった。斬り合いの修羅場で発揮された」

新選組には、試衛館系キャリア組と、非・試衛館系ノンキャリア組と二分されかかっている気配があった。早くも新選組には《階級》が作られ始めていたのである。当初のうち新選組は、長幼、剛弱、人望などでおのずと序列はありこそすれ、同志的紐帯で結ばれているはずであった。そんな仲間うちにいつの間にか上下関係が生じ、支配命令系統ができていたのである。

新規加入者はなおさら下積みであった。たしかに隊士に安定収入が確保され、遊郭でも妾宅でも京都の銘酒と美女の肌は思いのままだったが、それはめいめいが命のやり取りのリスクにおいて手に入れる対価であった。幹部には栄達の道があるが、平隊士には厳しい隊規に縛り付けられる。外部からは厳しい憎悪を向けられ、内部では不協和音を軋ませながら、新選組はどう引き返しようもなく、明日も知れぬ修羅の巷に踏み込んでいった。

新選組が無類に強かった理由は、白刃を連ねる集団戦法にあった。個人の剣技もさることながら、敵一人を何人かで囲んで仕留める。池田屋事件は壮絶な刀戦だった。蛤御門の戦闘には銃戦もあったが、新選組は後詰めだったから弾丸の洗礼を受けていない。正規の銃隊とは戦っていなかった。伏見、淀、橋本と新選組の剣が本格的に銃と対決した数日間の戦闘は、犠牲者続出の惨憺たる敗北をもたらしただけではない。剣を基本にした戦法の終焉をドラスティックに告げたのである。

4月25日、近藤勇は板橋の刑場で斬首された。この日に備えて髭を剃り、束髪を大たぶさに整えて、悠揚迫らぬ最期だったと伝える。そうでなくてはならない。近藤勇はこの日、立派に近藤勇自身を取り戻していたのである。その首級は三日間晒された後、焼酎に漬けられて京都に運ばれ、三条河原でもさらされた。

局地では勝っていても全体の劣勢は食い止められない。新選組はしょせんはゲリラ的奇襲であった。このころから土方歳三の胸中には確実な予感が形を取っていたようである。函館政権の終局は近い。小姓の市村鉄之助を落ち延びさせ、故郷への手紙を託して函館から横浜へ出帆する船に乗せている。手紙と一緒に届けられたのは一葉の写真であった。あの有名な肖像写真である。土方は自分の遺品のつもりで送ったに違いなかった。

額兵隊は海岸沿いに、伝習士官隊は市街地に展開して進む。土方歳三は馬に跨り、柵際に踏みとどまって叱咤激励していた。言い伝えでは、黒沙羅の詰襟服に白の兵児帯を占め、和泉守兼定の名刀を腰に帯びて馬上の姿は揺るがなかったという。敵兵が間近に迫り、砂山から狙撃して放つ弾丸が集中し、まわりで何人かが倒れたが泰然と動じなかった。飛来した一弾が腰間を貫き、さすがの土方歳三もたまらず落馬した。あたかも死に場所が用意されていたかのような最期であった。

土方歳三は「思想家」などではなかった。俳句のたしなみがあって遺品に『豊玉発句集』がある。もし俳句がいくばくかの人間の内面を映す鏡だとしても、土方の吟にその痕跡は期待できない。

会津の如来堂で死んだと思われている斎藤一は、変名で会津藩士に紛れこんで戸浪に移住し明治10年(1877)警察官に志願して西南戦争に出陣した。にっくき薩摩人をぶった斬れるなら千里の道を遠しとしようか。帰還後は警部補・巡査部長に昇進した。警視庁を退職してからは博物館の看守や、東京女子師範学校の会計係などを歴任して、大正4年(1915)に畳の上で死んだ。

近藤勇と喧嘩別れした永倉新八は、会津から米沢に入ったが同藩が降伏して行き場を失い、本籍地の松前藩に自首して帰参が認められた。明治になってから函館に移住し、その後小樽に住んでやはり大正4年まで長生きし、人に思い出話を語って倦まず、新選組の䟽影に生涯を捧げた。

その他の有名無名の旧隊士は「新撰組」という晴れては人に語れぬ前歴を背負ったまま文明開化の薄暗い片隅でひっそりと朽ちていった。その骨が時間の風化に晒されて無機物になりきるまで、新選組に向けられた怨念が消えることはなかった。

明治維新からほぼ干支が一巡して60年経った昭和の初めごろから、新選組は人々の記憶に新しくよみがえった。その物語は地下茎で生育する期間があまりにも長かったので、歴史の畑では発芽が送れ、大衆文学の度上で咲き開いた。植え替えるのがいいかどうかわからない。新選組の伝説は、後世の読者に問いかけている。正史と韛史はいずれがよく歴史の真実を語るであろうか。

一夜明けて1月4日。伏見海道では旧幕府軍が新手の歩兵隊を投入して反撃に出、一時は薩軍を押し戻して司令部を狂喜させたが、富の森の戦で日没になり戦線膠着。淀にいたはずの新選組については記録なし。実はこの日、背後の京都で大きな動きがあった。大久保利通と岩倉具視の調停工作が功を奏して、ついに「徳川慶喜討伐」を号令する錦の御旗が出たのである。これで薩長軍は「官軍」になった。旧幕軍は「賊軍」扱いにされることになった。




『新選組の遠景』



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