加藤のメモ的日記
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2011年02月23日(水) 医の倫理とは(12)

「研究者の一人が、懇談の席で次のような悩みを話した。「今の医学研究では、クローン技術を応用することでクローン人間をつくることも可能です。しかし、こうした最先端の研究がどこまで現実に応用されるべきか、その限界がわからない。歯止めになるのは何か、という点についての意見を知らせてほしい」私自身、先端技術の限界について、何を持って制御すべきかの答えは持っていない。むろん「ヒューマニズムに反しない」という程度の答えを返すことはできるが、実はこの社会ではこういう答えが最も多いのだが。それが実際には何の意味もないということもよくわかる。

私寺院、先端医学の限界について、何を持って制御すべきかの答えは持っていない。むろん「ヒューマニズムに反しない」という程度の答えを返すことはできるが、それが実際には何の意味もないということがわかる。

この医学研究者によれば、アメリカの医学部教育では最終的にその答えを宗教に求めるという。「神がはたしてこのような医療を許すだろうか」との問いを自らに発し、その答えを求めるプロセスの中で暗黙の了解ができあがっていくというのである。ところが日本にはこのようなプロセスがない。そこでどうなるか、研究分野の学会とか文部科学省などの判断を仰ぎ、つまるところ「官」が決めた方針に則って見解がまとめられ、それに従うことになる。一件、民主主義手法のように見えるが、実際にはこれは真摯な態度とは言い難い。何のことはない。自らが考えることを放棄して、何らかの権威を利用してそれに従うというだけの受け身の研究態度でしかないからだ。

1980年ごろに、医学部を志したものの動機づけを解析していくと、結局は二大骨格がやはり窺えてくる。それは「病から人類を解放したい」という純粋なヒューマニズムを出発点とに捉えている者」と、「医師という職業は社会的、経済的特権階級である」という、極めて功利的な考えをもとに医師という職業を選んだものの2つのタイプである。これを医師志望の二大骨格というべきだと思う。

偏差値の高い大学医学部に多いのだが、幼年期から秀才と誉めたたえられて、成績面で他人に負けたものがないという学生がいる。ところがひとたび大学医学部に入っていみると、そのような秀才ばかりの仲間をみて、初めて強い挫折感を味わうものが出てくる。その挫折感の行き着く先は、教室では卑屈、自己蔑視なのだが、社会と触れる場面では極端に他人に冷たい目を向ける。能力の低い者に対して愚弄した目を持つことになり。患者を「弱者」とみて自らの挫折感を満足させるというのだ。


教授の持っている権力

「医局のボスである医学部の教授は、他の文学部や理学部の教授と違って、研究・教育のほか、大学病院での診察を指揮し、さらに系列化の病院の人事を取り仕切るという、超人的な能力の持ち主でなければ務まらないような広大な権力を持っている。

他学部の教授でも弟子の就職に奔走する、しかし、たとえば工学部や法学部の教授が、弟子の就職先の会社に、誰を人事課長にせよ、と命令するとか、あるいは甲の会社から引き抜いて乙の会社に移すというようなことはとうてい、常識として考えることはできない。


医局講座制という語は、医学部の関係者に多様な反応を与えている、60歳以上の教官たちは、このシステムを『家族共同体』のように言い。医師・研究者として成長して行くプロセスで必要不可欠のごとく語る。だが、30代後半から40代の医師・研究者に話を聞いてゆくと、明らかに二つのタイプに分かれる。一つは60代の教官と同じように、医師の世界の伝統であるかのように話すタイプだ。忠実な医局講座生の継承者といってもよい。

他の一つはこのシステムこそ、相撲部屋、芸者置屋とならび日本三大封建組織だと不快気に語られる意見である。反乱者の怒りが増幅された声ととも見ることができるのだ。かって教授のいうことを聞いていれば、博士号も取得でき、医学知識・医療技術の中枢で腕を磨くこともできたし、自らの進む方向も赴任する病院も、そして留学先も教授が決めてくれた。医局のこの構造を青年医師連合会は崩壊させた。

教授が関連病院をも含めた医局人事を牛耳るシステムは、日本独特のものだ。関連病院にとっては医師の安定供給、派遣する大学側にはポスト獲得という利点がある。教授に反抗して、へき地の病院に飛ばされた医師もいる。患者の都合などとは無関係に人事が決定される。

医学・医療は誰のために存在するのか?むろん人類を疾病から解放するためである。そして、「生命の尊重」という。しかし、「生命」とは何かが、脳死・臓器移植、生殖医療、あるいは遺伝子治療と次々と進んでいくであろう医療技術のもとで変化していく。それと同様に、「ヒト」とは何だろう。そのような疑問がいずれ近い将来に起こってくることも間違いない。

遺伝子治療の研究レベルでは、天才的な遺伝子を持った人間を作り出すことが可能だというし、人類の生殖行為なしに次々と人造人間をつくることも可能である。父親も母親も誰かわからない人間、何らの病気を持たない人造人間、そうした人間は臓器を再生することによって「死」がなくなる時代とてくるかもしれない。いや最先端医療によってそのような人間がつくられるとすれば、「ヒトとは何か」の問いかけさえあやふやになってくるのではないか。

科学技術庁・科学技術政策研究所では、日本の産学官の研究者1200人を対象に、2000年に「21世紀に誕生する、あるいは実現する新しい技術について」というアンケートを行なった。医療に関していえば、人間のDNAやすべてのたんぱく質の構造が解明されて、エネルギー消費の少ない小型人間が生まれるともいう。遺伝子研究によって、人間の細胞も均質性を持つわりに感染性に弱く、新たに登場したウィルスによって、一気に人類滅亡の危機さえも考えられるというのである。

さらに脳の信号を変換する技術が生まれて、考えを持っただけでコンピューターへの入力ができるようになるとの予測もある。また人工知能も開発され、人間と意志の疎通が可能になる。さらにはあらゆる生物とのコミュニケーションが可能になってくる。身近にいる犬や、猫とさえコミュニケーションをとることができる。またイルカやチンパンジーといった動物の心の内面に入ることも可能である。

こうした時代が予想される時、医学・医療はどうなるのだろう。もしかすると、医学・医療は人類を疾病から解放するのではなく、人類を滅亡の方向へ向かわせる凶器となってしまうかもしれない。先に述べたように、医学部の教える側も学ぶ側も、医学・医療とは何かの疑問にゆきつくというのは、こうした不安を本能的に感じているからではないか、と私には思えるのだ。




『医学部残酷物語』


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