加藤のメモ的日記
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この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。彼が死去したのは平成18年の夏の暑い盛りであったが、その前年はまるで物に憑かれたように新聞連載の『彰義隊』のゲラ直しをしながら各誌各新聞にエッセイの連載を書き続け、短編小説の取材のために仙台へ行ったり東京地裁に行ったりしていた。この年エッセイ集2冊、長編23冊を上梓している。
彼の死後も未発表の短編を含めた遺作集『死顔』とエッセイ集『回り灯籠』が出版されたが、さらに文芸春秋から未発表の一篇を収めた『ひとり旅』が編まれるほどの作品があったことに驚かされる。
この中のエッセイ「一人旅」を『ひとり旅』として標題にしたのは、彼が研究家の書いた著書も、公的な文書もそのまま参考にせず、一人で現地に赴き、独自な方法で徹底的な調査をし、資料はむこうから来る、と自負するほど思いがけない発見をしているその執念と、余計なフィクションを加えずあくまで事実こそ小説であるという創作姿勢が全編にみなぎっているからである。
彼の遺作集のゲラや死後出版される著作物は私が読むことになり、この集などもそれぞれ当時のことが思い起こされる辛い仕事になった。物を書く女は最悪の妻と思っていたが、せめてこれが彼にしてやれる最後の私の仕事になった。この集に記されている一番古い戦記小説『戦艦武蔵』執筆時のこと、無名の新人が一流文芸雑誌に420枚一挙掲載されることになったその死物狂いの様子を今も胸苦しく思い出す。
それまでリリカルで鮮烈な佳品を書く新人と評されていた彼とは作柄の異なるこの長編は酷評を受ける一方で、平野謙氏に今月のベスト3の1作に選ばれ、本田秋五氏の評には、記録文学作家としての能力を十分に示した、とあった。新しい分野に足を踏み入れるきっかけになり、好きな短編を書きながら戦記小説、歴史小説を書き始めた。
夜中にうなされているのを起こすと、追手に追い詰められている夢を見ており、、『桜田門外の変』を書き始めたときは、巨大な彗星が現れたのを凶事の前兆としたいと喜んでいたのに、時代的に早すぎると破棄し、続いて252枚の書き進めていた原稿を庭で焼却しているの見たときは唖然とした。尊王攘夷に対する解釈がありきたりで、水戸藩領の海岸線が長いため外敵に対する危機感から生まれた思想だというのであった。それでも連載は間に合ったのである。
そんな激しい性格の彼も、「茶色い犬」のムクの取材の時ひどく心を痛め、、「銀行にて」で10万円おろすのに万を押さなかったので10円玉がコロンと出てきたと笑う。機械には弱い男であった。
たった1日で終った彰義隊をどう書くのか心配で、お互いの作品を読まないことにしている私も毎日読んでいたが、彼は皇族でありながら賊軍の立場に立たされた輪王寺宮の悲劇を書きたかったのだ。宮の曾孫北白川道久氏が伊勢神宮の大宮司で、『彰義隊』が完結したら二人でご挨拶に伺う予定だったのに、かなわぬ夢となった。
『ひとり旅』吉村昭
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