加藤のメモ的日記
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| 2011年02月04日(金) |
生命はつながっている (8) |
まあ、車イスで病院の中庭や外庭まで出られるようになった。太陽の光が嬉しい、風が嬉しい、街のざわめき、生命のざわめきが嬉しい。お年寄りを見ていて嬉しい、若い人を見ていて楽しい、若いお母さんや子供たちを見ていて愛しい。生きることって素晴らしい。こんな素晴らしいことを、どうしてみんな素晴らしいと感じないのだろう。生きていることがこんなに素晴らしいことだということに、どうして気付かないんだろう。
「寂しい、辛い、死んでしまいたい」という言葉に、「そんなことはない」とか「それはひがみ」とか言っても仕方がないことがわかった。聞くだけでいいのだ。その人はそれで満足するのだ。最後に「うまくいきますよ」と声をかけると「ありがとう、ありがとう」と涙ぐむ。私も「ありがとう」と言って別れる。そうして何人か亡くなった。
人は話したいのだ、聞いてほしいのだ。そして分かってほしいのだ。多くの場合、答えがほしいのではなく、親身に聞いてくれる友人が欲しいのだ。身寄りのない不安。理解してくれる人のいない寂しさを聞いてほしいのだ。多くの場合、ただ黙って聞いてあげるだけでいいのだ。
患者さんの多くは病気よりも孤独に苦しんでいる。死ぬことよりも、一人で死んでいくこと、誰にも知られないで死んでいくことのほうが怖いのだ。見守ってくれる人、たとえ自分が死にゆく時も見守ってくれる人が必要なのだ。人はつながりを求めているのだ。
「何のために生きるのか」、それは簡単なこと。喜びのために、幸せのために、感動のために生きているのだ!
世界には無数の文明があった。一方は滅びた文明、一方は滅びなかった文明。滅びた文明の特徴は巨大な構造物、階級制度、豊かな経済、高度な技術、治水や灌漑など大規模に自然を改変したこと名でである。そしてそのことで人類の消費量が自然の許容量を超えて人類は滅亡した。
滅びていない文明の特徴はそれをしていないことである、巨大な構造物を作らず、階級制度をもたず、経済を拡大せず、自然を大きく改変せず、自然と調和して暮らしている。人類の消費量が自然の許容量を超えなければ滅びることはない。
確かに車は便利だが、交通渋滞時は歩くより遅い。日本では交通事故で毎年100万人がケガをし1万人が死亡している。車はピストルよりも多くの人殺しながら、残り少ないエネルギー資源を大量消費しながら、大気汚染物質を垂れ流ししながら走っているのである。これを便利というのだろうか。
幸せとは何か、私は交通事故のとき寝たきりを体験した。社会復帰は不可能と宣告された。回復して以来私はずっと幸せなのだ。生きていること、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、人と話ができること、当たり前のことを幸せとして実感するようになった。これは常に不自由な人と比較しているわけではない。本当にそのことを幸せと感じるようになったのだ。
つまらないことに腹を立てるのは、つまらないことだと思う。しかし怒りは生物に与えられた本能だと思う。怒ると力が強くなる。怒ると本来の自分のパワーの数倍〜10倍のパワーが発揮され、生理学的にも「怒るとアドレナリンが分泌され筋肉の働きを強化し、心拍を上げ、痛みを緩和する」ことがわかっている。
例えばアザラシの母親は子供を守るためにシロクマと戦う。本来なら勝負にならない。一撃で倒されてしまう。しかし怒りによってパワー上がる、怒りによって痛みを感じない。一撃を受けても立ち直り再び戦う。目が潰れようが、顔が裂けようが、何度も何度も向かっていく。そして子供が逃げられるまでの時間を稼ぐ。母アザラシは動けなくなるまで戦う。動けなくなった時、すでにボロギレのようになっているだろう。しかしその時、子供は無事逃げていることだろう。
擬態ははるかに離れた場所にいる敵から見て、自分がどのように見えているのかが分からなければならない。虫たちは、どうしてそれができるのだろうか。虫たちはどのようにして自分をそのような形にできたのだろうか。また、葉によく似た昆虫も、鳥には見つけられにくい。北極の白クマや北極キツネは白い雪の中では風景に溶け込んでいる。昆虫や動物にどうしてそれがわかるのだろう。このような例は注意して観察すると数多くみられる。
『転生と地球』
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