加藤のメモ的日記
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2011年01月21日(金) 日本の黒幕・笹川良一

こんなにも濃い96年を生きた日本人が他にいただろうか。巨万の富を稼ぎだしながら、自らは吝嗇家で贅沢はせず,福祉に使う。ただし数多の女性を愛した。愛した女性の名前は70人近くといわれる。国内ではハンセン病撲滅のために慈善事業でその名を知られ、評価も高い。このギャップは一体何なのか。彼の人物像については「胡散臭い大金持ち」というイメージだけが浸透している。

お手伝いさんも、こう語ったという。「旦那様は『絶対贅沢をしちゃいかん』と話していました。晩年に秘書がガス湯沸かし器を取り付けようと言っても、『もったいないから買わない』といい、毎朝自分でお湯を必要な分だけガスで沸かして顔を洗って今した。秘書が見かねて自腹で購入して取り付けたら、『これは便利だな』と喜んでいましたけど」

生活も質素であった。夕食のおかずはメザシ2本が定番。ご飯は切り干し大根を一緒に炊いた大根飯。あるいは生卵かけごはん。うどんは、とけるまで煮込んだ鍋焼きうどんが好物で、具はなし。著書では秘書がこんな話をしている。

「協定関係の会議の時の昼食は、鍋焼きうどんと決まっていましたけど、汁を吸いつくしてドロドロに伸びきったうどんを食べはるんです。しかも、残したものを『うまいぞ、お前食え』と鍋が回ってくる。伸びきってぐじゅぐじゅになった鍋焼きうどんなんて、涙が出ますよ」中華料理もよく食べたが、中華といってもチャーハンだけだった」

笹川の質素倹約は両親の影響が大きい。父、鶴吉は大きな造り酒屋を営んでいたが、高等小学校を卒業した息子を進学させずに、15歳から2年間寺に預けて厳しい修行をさせた。また、鶴吉の死後、家を出て本格的に先物取引を開始する笹川に母・テルはこう言った。「いっそう心して世のため人のために働くよう心がけなあきまへん」

その言葉を守り続けた笹川は、質素な食生活を好む一方で、世界中のハンセン病患者の施設を慰問し、患者の手を握り励ましたのだ。また終戦直後は、東京裁判の戦犯家族を支援し、関係者からの感謝の手紙が3000通も残っている。だが、倹約かであり、福祉事業に熱心だった一面はマスコミに報じられてこなかった。笹川が亡くなったとき、毎日新聞はある文化人のこんなコメントを掲載している。

〈戦犯に問われながら、終戦後に米軍の慰安所を作ったりして「変わり身が早い人〉という印象がある。各国に多額の寄付をしたが批判も多く、結局「リッチなファシスト」という評価を変えることはできなかった。金儲けがうまく、何でも金で解決しようとしたところがあった。「金がすべて」という戦後日本人の考え方を作った人ではないか〉

なぜ笹川は一度も有罪になったこともないのに、「カネに汚い」人物として書かれ続けたのだろうか。工藤氏はこう説明する。「今なら名誉棄損ですぐ訴えられるような記事を新聞や雑誌に書かれても、笹川氏は『書いている人にも女房や子供がいて、生活があるんだから』と、一切提訴をしなかった。だから、いい加減な情報が野放しになったと思います。

何百億円はあると思われた笹川の遺産総額は約53億円で、自宅や山林、非上場会社の株など換金しづらいものばかり。一方、福祉事業などで残した借金は約37億円にも上った。資産の多くを使いきっていたのである。「こんなハチャメチャに人生を送ることができたのは、日本では笹川氏が最後だと思います。あまりにスケールが大きくて、とても黒幕、首領という枠に収まる人物ではありません」今の政財界に笹川氏ほどの傑物がいないことは間違いないだろう。


『週刊現代』


加藤  |MAIL