加藤のメモ的日記
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2011年01月18日(火) 人生の幕切れ

免疫学者の多田富雄さんは大の病院嫌いで、エッセイに「病院は病人の病気を悪くするところ」と書いている。そのため自宅療養を続けていたが、亡くなる一ヵ月半前には、ついに寝たきりになってしまい、書斎にベッドを運び入れた。大切にしていた着物や蔵書の寄贈先も、すでに決めていた。多田さんは長い闘病生活の中で、覚悟を決め、死の準備を確実に進めていたことになる。

政治評論家の細川隆一郎氏は03年に脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残り、目が見えにくくなりました。頭は最後まで明晰で、死の1週間前には、入居していた老人ホーム内でラジオ番組の収録をしている。死後、遺言とともに手帳に書かれたメモが書斎から見つかった。細川さんも、人知れず老いを見つめ、死の準備をしていたのである。一通のメモにはこう記入されていた。

《五体満足、五体不満足。その身にならなければ何もわからぬ。その身になった時がスタートだ。すべて明るくプラス思考で人生を開くことが大切だ。絶望は逃避であり敗北だ。目が見えなくても匂いがわかる、音がわかる、歩ける、体操ができる》

小説『月山』で74年芥川賞を受賞した作家・森敦さんは‘89年に77歳で亡くなった。晩年インタビューで、こう述べている「人間は本当に悟りを開いたとき、恍惚の人になるんです。老人になれば肉体が恍惚になっているから、悟りやすい。生と死がおのずから背中合わせだ。だから僕は、ガンといわれても怖くない」単なる好々爺になったわけではなく、文学の志を失ってはいなかった。最期の日まで執筆を続けていたのである「これをやりたいという意思を持って生きていれば、その通りになる。それは本当のことなんですね」

淀川長治さんが気管支炎で退院後、赤坂にあるホテルで暮らすようになる。そのころから、淀川さんは「僕、明日死にますから」とよく言うようになったという。本心ではなかったかもしれないが、挨拶代りのように口にする「死にますから」には、欲得を超越したある種の潔さが漂う。病院が大嫌いで、検査を勧められても行かず、それがアダになったのか、98年に大動脈瘤と内臓のがんが見つかった。

漢文学者の白川静さんは、‘06年に96歳で亡くなった。「あと何年生きられるかなんて考えない人でした。『命は神様の思し召しだ』とよく言っていましたから」そうして亡くなる前、病室でこう呟いた。「ようけ書いてきたな」それから間もなく、意識が混濁し、眠るように亡くなったという。死因は多臓器不全。「体のどこが悪いということはではなく、休養のつもりで入院したら急に容態が悪くなり、間もまく逝ってしまった」


『週刊現代』


患者さんの多くは病気よりも孤独に苦しんでいる。死ぬことよりも、一人で死んでいくこと、誰にも知られないで死んでいくことのほうが怖いのだ。見守ってくれる人、たとえ自分が死にゆく時も見守ってくれる人が必要なのだ。人はつながりを求めているのだ。

『転生と地球』157


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