加藤のメモ的日記
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2010年12月26日(日) 生まれる言葉、死ぬ言葉

かっては盛んに使われたものだが、今ではすっかり忘れ去られてしまった言葉を死語という。太平洋戦争で日本がまだ威勢が良かった頃、ラジオのスイッチを入れると、勇壮な軍艦マーチに続いて、大本営発表というのが行われた。わが日本帝国海軍機動部隊は、ソロモン沖の海戦で、敵大型空母1隻を轟沈、駆逐艦3隻を撃沈、2隻を大破……。

などという成果を発表した。今にして思えばだいぶ誇大宣伝だったわけだが、何も知らない国民は万歳を叫んで大喜びしたものだ。「轟沈」というのは、そのころ戦意高揚のためにつくられた言葉で、魚雷などが命中し、逃げ回りながら沈没したというのではなく、一瞬のうちに海の藻屑となったような場合をいった。この勇ましい言葉も、敗戦と共にはかなく消えさった。

またこのころは、戦争を批判する者には「非国民」とか「国賊」というレッテルが張られ、太平洋戦争を「聖戦」と称していた。そして戦後間もなく「供米」(きょうまい)という言葉ができた。敗戦による混乱期で、足りない食料を確保するため、政府が国家権力を用いて、米を供出させたことからできたものだが、最近になって米が余るようになり、水田の耕作反別を減らす時代になったので、使われなくなった。

国際関係では「低開発国」という言葉がある。かっては「後進国」と呼ばれていたが、固定した価値判断は好ましくない、ということで、戦後「低開発国」と改められた。しかしこの言葉も、これらの国々が経済的に立ち遅れ、未開発のままで置かれてきたのは、先進資本主義の長期にわたる植民地体制を表徴するものだ、という議論があって、この頃では「低開発」という表現を避け、”発展しつつある国”とうことで、「発展途上国」という言い方に変わってきた。

「落第」が「留年」になってから久しい。「落第」は昔の『扶桑集』(ふそうしゅう)にも出てくる由緒ある言葉だそうだが、どういうわけか、すっかり嫌われてしまった。「落第」というと、、いかにも勉強ができなくて、原級にとどめられたという印象なので、最近は心ならずも「留年」するのだとか、就職の都合で卒業しないのだ、とか、いろいろな理由がつけられるらしい。

人権問題がやかましく叫ばれだしてから「死語」になったものに、「女中」「子使」「百姓」「土工」などというのがある。「女中」は「殿中に奉公している奥女中」のことで、元来、婦人の尊称だったはずだが、いつの間にか蔑称として嫌われ「お手伝い」となった。

同じように「子使」が「用務員」「校務員」にとって代わられ、「百姓」は「農民」、「土工」は「作業員」などに変身した。戦後、「活動写真は」「映画」に変わり、トーキーが出現してから「活弁」という職業は消滅し、当時華やかだった「モガ・モボ」も今では70過ぎたお年寄りだろう。

「楽隊」「蓄音器」も姿を消し、「円タク」も、物価の値上がりで1円では走れなくなった。「乗合自動車」は「バス」に駆逐され、古めかしい「いいなずけ」は「婚約者」や「フィアンセ」に、「後家」さんは「未亡人」となった。




『ミステーク日本語』


加藤  |MAIL