加藤のメモ的日記
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| 2010年12月23日(木) |
国民不在で決まった珍制度 |
裁判員制度は、これまで裁判官だけが裁判所を構成してきたやり方を改め、一般国民から無作為に抽出した人を裁判員と名付けて裁判官と共に、裁判所の構成に入れる点に特徴がある。ところがこの制度には、重大な欠陥があって実施は許されない。その欠陥とは、裁判員が参加した裁判所は、法律に基づく裁判ができないという重大な憲法違反があることである。国の最高法規である憲法に違反する制度を実施すべきではないのである。
裁判員制度とは、簡単にいうと重罪の刑事訴訟について、一般国民の中からくじで選ばれた裁判員が裁判官と一緒になって裁判所を構成し、審理も判決も担当する制度である。裁判員に選任された人は、いやでもやらなくてはならない。
また被告人は、裁判所に裁いてもらいたいと願ってもダメなのである。この制度は、「裁判官は世間知らずだ」というマスコミや世論の批判を考慮し、日弁連が強く押す陪審員制度をつぶすために、一種の妥協の産物として裁判員制度を持ちだし、議論の着地点を作ったものだと解釈することができる。
裁判官は法律のプロなのに対し、裁判員は法律の素人である。ここには、法律を知っているかどうかの点で決定的な差がある。法律の素人なのに、裁判官と一緒になって裁判所の構成に入るなんてことが本当に可能なのか?という疑問が自然と湧き出てくる。これは国民的疑問だし、この点こそがこの制度の問題点を浮き彫りにする本質的な疑問だといってもよいと思う。
裁判員には、警察官、検察官、被告人、弁護人、証人などの示す調書・証拠・証言などの真偽を見極めることが求められる。実際、調書などの任意性、信用性が厳しく問われ、容易に「事実認定」しがたいものが多い。また、言葉の分かりやすさや単純さに流されたり、印象に引きずられたりする恐れも否定できない。無理のない話であるかどうかを見定める推察力が必要となる。また、法律についても一定の知識が求められる。法律用語は、日常語とは必ずしも同じ意味ではないので、誤解しないように注意しなければならない。
裁判所の構成員9人のうち、6人を占める裁判員が基準なき判断をするのである。このような裁判所に、法律に基づく裁判を期待することはできず、基準のないままでは、いかなる結論が出てくるのかわからないのである。しかし、法律を知らなくとも、普通に生活をしている中で自然と身につけている社会常識に基づいて判断するから、そうとんでもない結論が出ることはないということなのか。
裁判員制度の導入時の議論でも、非常識な裁判官だけではおかしな判決が出かねないので常識を吹き込ために、裁判員を送り込むのだともいわれた。常識に基づく裁判がよいというのだろう。しかし、常識に基づくというだけでは裁判などはできない。細かく見ていけば、常識とは人の数だけあるのだから、常識に基づいて裁判をすることは無理なのである。
法令は知らないし、常識は判断の基準にならないとすれば、裁判員は一体何を基準に判断するのだろうか?この場合、裁判員は、自己の正義感や常識と信ずるものに従って判断するしかなくなることになる。極端にいって、直感だけが頼りということになる。主観的裁判の登場である。このように、裁判員が自己の正義感や直感を頼りに赤裸々なユニークな意見を述べ、どれが正しいかの基準もないという評議の場となる。
裁判員は、審理全体を丼勘定的に「えいやーっ」と決断して、評決で「死刑」などと意見を述べることになる。こんなことでは、判決では何が出てくるのか見当もつかない。これでは法令も何もなかった大昔の裁判に逆戻りである。これまでの人類社会の進歩の歴史を一気に逆戻りさせるとは、なんと無謀な裁判員制度なのだろうか。
国民は、「裁判員制度って何?」という風に、その意味さえわからず、なぜそのような制度が導入されるようになったのか、そのために国民自身の受ける現実的負担の大きさ、制度そのものが憲法違反である点、裁判員制度とは客観的な基準のない第六感裁判であること、国民の人権侵害の危険性の大きさなどの多くの問題点を何も知らない。それもこれもすべて裁判員法の制定が、国民を無視した態度で一貫しているからなのである。本書の主張は、裁判員制度は丸ごと憲法違反であるから廃止せよというものである。
『つぶせ!裁判員制度』
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