加藤のメモ的日記
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2010年12月16日(木) なぜ神は黙っているのか

十字架に組んだ二本の木が、波打ちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮が満ちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。そして二人はすぐには絶命せず二日も三日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引き取らねばならないのです。そうした長時間の苦しみをトモギの部落民や他の百姓たちにたっぷり見せつけることによって、彼らが二度と切支丹に近づかぬようぬさせることが役人たちの狙いなのでした。

モキチとイチゾウが木にくくりつけられたのは昼過ぎ。役人は四人ほど監視人を残して再び馬で引き揚げていきました。雨と寒さのため、はじめは海岸に群がっていた見物人たちも少しづつ戻り始めました。潮が満ちてきました。二人の体は動きませぬ。波が彼らの体を、足を、下半身を浸しながら、暗い浜に単調な音を立てて押し寄せ、単調な音を立てて引いていきました。夕暮れ、オマツと姪が監視の男に食事を持っていき、あの二人にも食べ物をやっていいかとたずね、許しをえてから小舟でやっと二人に近づきました。

「モキチよ、モキチよ」オマツがそう声をかけますと、「はい」モキチは返事したそうです、今度はイチゾウ、イチゾウと申しましたが年とったイチゾウはもう何も答えられませぬ。しかし、彼がまだ死んでいないことは時々、首をかすかに動かすのでわかりました。

「きつかろうね、辛抱するとや、パードレさまもわしらもみんなオラショば祈りよるけん、二人がパライソ(天国)に行くやろうって思うとるとよ」懸命にオマツがそう励まし、持ってきた干し芋を口に入れてやろうとしますと、モキチは首をふりました。どうせ死ぬのなら一刻も早くこの苦しみから逃れたいと思ったのでしょう。

「婆さま、イチゾウさんに」とモキチは申しました。「食べさせてやってくれんね。わしはもう堪えられませぬ」オマツと姪は泣きながらどうしようもなく浜に戻りました。浜に戻っても彼女たちは雨に打たれたまま声をあげて泣きました。夜が来ました、監視の男たちのたく焚火の赤い火は、我々の山小屋からもかすかに見えました。が、その海岸にはトモギの部落民たちが群がり、ただ、暗い海を凝視していたのです。



司祭は司祭で壁板に頭を強く押しつけたまま、老人の告白をぼんやりと聞いた。老人が言わなくても、その夜がどんなに真っ暗だったかは、もう知りすぎるほど知っている。それよりも彼はフェレイラの誘惑を自分と同じように、この闇の中に閉じ込められたことを強調して共感を引こうとするフェレイラの誘惑に負けてはならなかった。

「わしもあの声を聞いた。穴吊りにされた人間たちの呻き声をな」その言葉が終わると再び鼾のような声が高く低く耳に伝わってきた。いや、もうそれは鼾のような声ではなく、穴に逆さに吊られた者たちの力尽きた息絶え絶えの呻き声だということが、司祭にも今ははっきりとわかった。

自分がこの闇の中でしゃがんでいる間、誰かが鼻と口から血を流しながら呻いていた。自分はそれに気がつきもせず、祈りもせず、笑っていたのである。そう思うと司祭の頭はもう何が何だか分からなくなった。自分はあの声を滑稽だと思って声を出して笑いさえした。自分だけがこの夜あの人たちと同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた。だが自分よりももっとあの人たちのために苦痛を受けているものがすぐそばにいたのである。

どうしてこんな馬鹿なことが。頭の中で、自分ではない別の声が呟き続けている。それでもお前は司祭か。他人の苦しみを引き受ける司祭か。主よ。なぜ、この瞬間まであなたは私をからかわれるのですかと彼は叫びたかった。

「称えよ、主を。わしはその文字を壁に彫ったはずだ」とフェレイラは繰りかえしていた。「その文字が見当たらぬか、探してくれ」「知っている」怒りにかられて司祭は始めて叫んだ。「黙っていなさい。あなたはその言葉を言う権利はない」「権利はない。たしかに権利はない。私はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない、三日間……このわしは汚物を詰め込んだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」

フェレイラはまるで吼えるような叫びをあげた。「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」「黙りなさい」

「では、おまえは祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼らがあそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」司祭は狂ったように首を振り、両耳に指を入れた。

しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳からその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ、主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ、あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わなければいけない。

マストをかすめる鳥の翼のように大きな影が心を通り過ぎた。鳥の翼は今いくつかの思い出を、信徒たちのさまざまな死を運んできた。あの時も神は黙っていた、霧雨の降る海でも沈黙していた。陽の真っすぐに照る庭で片眼の男が殺された時も物言わなかった。しかしその時、自分はまだ我慢することができた。我慢するというよりこの恐ろしい疑問をできるだけ遠くに押しやって直視しまいとした。

けれど今はもう別だ。この呻き声は今、なぜ、あなたがいつも黙っているかと訴えている。「この中庭では今」フェレイラは悲しそうに呟いた。「可哀想な百姓が三人ぶらさげられている。いずれもお前がここに来てから吊られたのだが」老人は嘘を言っているのではなかった。耳を澄ますと一つのように聞こえたあの呻き声が突然、別々なものになった。一つの声があるいは高くなり、低くなるのではなく、低い声と高い声は入り乱れてはいるが別の方向から流れてきた。

「わしがここで送った夜は5人が穴吊りにされておった。五つの声が嵐の中でもつれあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄をとき、薬も付けようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬのかと。役人は笑って教えてくれた。彼らはもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」「あなたは」司祭は泣くような声で言った。「祈るべきだったのに」

「祈ったとも、わしは祈り続けた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴が開けられている。その穴と鼻と口から血が少しづつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」

司祭は覚えていた。西勝時で初めて会ったフェレイラの耳の後ろにひきつった火傷の痕のような傷口があったことを、はっきり覚えていた。その傷口の褐色の色まで今、まぶたの裏に甦ってきた。その映像を追い払うように、彼は壁に頭を打ち続けた。


『沈黙』








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