加藤のメモ的日記
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キリストの宣教の開始は30才頃である。いとこのヨハネによる洗礼。およそ3年間、12人の弟子たちと共に広範囲の旅。教えを説き、病人を癒し、死者をよみがえらせた。しかし、ユダヤ人の大司祭カヤバと全議会によって濡れ衣を着せられる。ローマの総督ピラトによる判決は必ずしも不利ではなかったのに死刑の宣告を受け、4人のローマ軍兵士により架刑。十字架から降ろされて、アリマタヤのヨセフとニコデモによって墓に置かれた。
彼の生涯と教えの与えた力は、はかり知ることができない。心を純化することによって、人を変えようとした。最高の革命家と呼ばれてもよい。物語は『新約聖書』、また聖書外典の中でさまざまに語られている。彼に従うものはクリスチャンと呼ばれ、今全世界で14億人にのぼる。信徒の数は全宗教中最大である。キリスト教国は文化的、経済的、政治的に優位を占め、人類史は彼の誕生によって二分されている。紀元前(BC)と紀元後(AD)。このことは、彼がこの世に現れたことが、歴史の要であることを意味している。
最も謎に包まれた問題……、12歳から30才まで、イエスがどこで何をしていたかについて、何の記録も残されていない。「イエスの失われた歳月」と呼ばれるこの17年。学者たちは議論した、イエスとは実在の人物か、架空の人か。もしくはそのどちらででもある何ものか。1894年、ロシアのジャーナリスト、ニコラス・ノートヴィッチが、フランス語で一冊の本を著した『知られざるイエス・キリスト伝』彼は小チベットを旅行中、古代仏教者による手書き文書の写しを発見した。その日はなんと失われた歳月、イエスはどこにいたのか、―インドだ、と明記されていたというのがノートヴィッチの主張だった。イッサとはアジアでのイエスの呼び名である。
『聖イッサ伝』は三部に分けられる。第1部はイッサの受肉をめぐる事情と誕生、そして幼児期。第二部は「失われた歳月」の細部が扱われ、13歳から29歳までのインド、ヒマラヤ時代が取り上げられている。イッサがインド、今日のパキスタンを横切ったのは14才の時だった。6年間の学びの後、イッサは聖典の完全な解説者となった。その後にヒマラヤを去って、西に旅立つ。道々、偶像崇拝を非難して教えを説きながら。そして遂に29歳、パレスチナへ帰る。そして最終部はパレスチナ伝道時代の出来事のすべてが述べられている。イエスの名と名声は、彼の生涯の最後の3年、パレスチナでの3年間によって、ただそれだけで、世界の諸国民のもとへ届けられたのである。
アジアの探検行を推進したレーリッヒ教授の体験は、豊富な資料となって後に現れる多くの著作の中に行かされた。『ヒマラヤ』の巻頭には、古写本から取られた長い文章が引用されている。「イッサはひそかに両親を捨て、エルサレムの商人たちと共にインドへ向かった、神の言葉において完全になるために、そして大ブッダのを学ぶために」
教養豊かなあるインド人が、イッサ伝の写本について意味深長にこう語った。「イエスがイスラエルを留守にしていた間、なぜ人々はいつもその期間イエスはエジプトにいたことにするのでしょう。いうまでもなくイエスは、青少年時代を学んで過ごしたはずです。その説教がどんな源に帰着するのか。どうしてそこエジプト人がいるのですか。そして誰も仏教の、インドの痕跡を見ようとしないのか。キャラバンの道をたどったイッサの遍歴が、インドへ、そして現在はチベットに区分されている地域へ入ったということが、どうしてこうも激しく否定されねばならないのか、私には理解できません」
チベット仏教とキリスト教との類似点について、エンサイクロペディア・ブリタニカには次のように書いてある。「チベットの仏教が、歪められたキリスト教だというのは、かなり古くからあった考え方である。彼はチベット人が、確かに正しい三位一体の考えを持っているとして、そこにキリスト教の実に不思議な浸透力の働きを主張した。チベットの宗教は、それがどんな源流から発したにせよ、純粋であり、質朴であり、その源流における極めて高貴な神性の存在をうかがわせることは真実である。
チベット人の宗教は、本質的なあらゆる点でローマ・カトリックと一致する。例えば彼らは、パンと葡萄酒でミサの聖餐を祝う。死者に聖油を塗り、結婚したカップルを祝福し、病人を癒すために祈り、行列を作り、崇拝する人の遺品を敬い、修道院や尼僧院を持ち、カトリックの僧と同じく聖歌隊の奉仕を受けて歌い、年間幾度かの断食を守り、ムチ打ちさえ伴う厳しい悔い改めの苦行に耐え、そして外地へ派遣された伝道団は極端な窮乏を忍んで日を送り、また中国まで広がる砂漠の中を、裸足で旅する。
オロチオ・デ・ラ・ベンナ修道士はこう言っている。「概してチベット人の宗教は、ローマ・カトリックのコピーだと言える、彼らは唯一神と三位一体を信じ、天国、地獄、それに煉獄も信じている。死者のために取りなしの祈りを祈り、施し、供え物をささげる。たくさんの修道院を備え、そこには修道僧や托鉢僧が溢れるほどである」僧たちは貧乏、従順、慈悲の三つの誓いのほかに、なおいくつもの戒律に従う、僧院には院長によって選ばれた聴問僧がおり、僧たちは大ラマ、もしくは僧正よりライセンスを受け、ライセンスに従ってのみ告解を聞き、悔い改めの権行を命じることができる。彼らは聖水を使い、十字架やコンタツを身につけている。
1844〜46年にチベットを旅したムッシュウ・ユックはラマ教の信仰とカトリックとの間の近縁関係に言及し「十字架、かぶり物、式服、外出の際に大ラマが着る長マント、重唱による奉仕、讃美歌、悪魔払い、5本の鎖につるされた香炉、協会制度に基づく独身生活、霊的隠棲、聖人崇拝、行列、聖水、これらすべて、仏教徒と我々自身の間にある相似点である」
儀式、再点灯に見られるこれらの類似点は、もともとチベット仏教に備わっていたものか、あるいは初期のローマカトリックが持っていたものか、という厄介な議論に立ちいることは避けよう。自分の発見が本当のものとして承認されるために、ノートヴィッチ氏が言いたいのはこういうことではないか。つまり二つの宗教団体が、実は共通のある源から出ているかもしれないこと、そしてもし、いくつかの伝道団が想像したように、使徒の時代、チベット人に福音が説かれていたとしても、それは決してあり得ないことではなかった。イエスがその生涯の不思議な空白の期間をどこでどうしていたか、彼の同労者、キリストの使徒たちは、彼の口から直接聞いていないはずはない。そして彼らの中のだれかが、主の若き日の仕事場を訪ねたいと願い、現実に訪ねていたとしても決して不自然なことではなかったのだから。
『イエスの失われた17年』エリザベス・クレア・プロフェット
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