加藤のメモ的日記
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「会社は誰のものか」が改めて問題となったのは、西武鉄道グループのワンマン、堤義明が証券法取引法違反で逮捕され、表向き失脚すると同時に、ライブドアのホリエモンこと堀江貴文がニッポン放送の株を買い占め、フジサンケイグループを支配しようとして耳目を集めたからだった。興味深いその二つのドラマが同時進行したことで、そもそも、「会社は誰のものか」が改めて問われるいことになったのだが、それは結局「株主のもの」という答えで落ち着こうとしている。
しかし、公害等を考えても「会社は社会のもの」であり消費者(利用者)を含め、監査役、社外重役、そして労働組合党によって、さまざまにチェックされなければならない。その監視役の重要な一つにマスコミがあるが、奇しくも、ホリエモンの奇襲によってフジサンケイグループの旧態依然たる体質が暴露されたように、マスコミはほとんどそのチェック機能を失っているのである。
1986年5月付の「内外タイムス」のコラム「マスコミ唐竹割り」にこう書いてある。「毎年5月の初めになるとユーウツになる。例の堤義明の、知性のカケラすら感じられない「タ」の字面をあちこちの媒体で見せつけられるからだ。なぜ5月の初めかというと、4月26日が堤康二郎の命日で、成り上がり根性丸出しの墓参の模様が毎年いくつかの媒体に紹介されるからである。
今年も「週刊文集」「フライデー」などが、デカイだけの墓にぬかづく義明の写真を意味ありげに掲載していた。自社従業員に自分の親の墓掃除や守りを強要することなど、今日では土建屋といえどもよくしない。ところがそうした方面での経営センスゼロの義明は茶坊主幹部以下社員たちに平気でそれを命じて恬としている。
不愉快なのは、どのマスコミも広告費欲しさにそうした堤をさも大物のごとく持ち上げて見せる風潮だ。まともな人間で堤を面と向かって批判したのは評論家の佐高信ぐらいではないか。あとは、税金を払わぬことを社是としているかのようなこの二代目田舎者をヨイショするばかりである。いやはや後進国ならではの漫画だ」
私がここで評価されているのは、この文章が第一章に収録した朝日ジャーナル掲載の企業探検で批判したからだが、それから20年近くたって、ようやく堤義明の”裸の王様”ぶりが糾弾され始めた。ここに出ている「週刊文春」や「フライデー」もその批判の列に加わっているが、自分たちが「持ち上げた」ことは忘れたかのように手厳しい。
経済評論家の奥村宏は日本のマスコミを”解禁待ちジャーナリズム”と喝破した。自ら禁を説くのではなく、あゆのように解禁となるのを待って批判を開始する。その体質は全く変わっていない。ジャーナリズムとは触れてはならぬとされているタブーに挑むことをその本質とするのではなかったか。
「マスコミ唐竹割り」の「税金を払わぬことを社是ととしているかのような」は『日経ビジネス』の「強さの研究」にリポートされた『法人税ゼロ』を目指している。西武鉄道グループの中核会社、コクド(当時は国土計画)の経理は、資金の海外流出を防ぐという点では完璧であり、1979年以降3年間の納税証明書を見ると、法人税を支払った痕跡はない。それについて、ある国税局関係者は「大正9年、先代の堤康二郎氏が国土計画の前身である箱根土地を設立して以来、この会社は法人税を支払ったことがないのではないか」とまで言っている。
1億円でも利益が出ていれば法人税がかかるはずなのに、コクドは利益を出し配当を受けながら法人税はゼロだった。プリンスホテルを含む西武鉄道グループは約70社のうち、上場企業は西武鉄道と伊豆箱根鉄道だけなので、そのカラクリは不明だが、『日経ビジネス』は、さまざまな仮説を立てて真相に迫っていた。
しかし、マンガをマンガでなくするために20年もかかったわけである。私は、今堤義明が叩かれれば叩かれるほど、マスコミの珍妙さをを感じる。無力さ、非力さと言ってもいい。彼らはそれをごまかすために堤を叩いているのではないかとさえ思うのである。
「企業の世襲と独裁」を批判したこの本にはフジサンケイグループの”鹿内王朝”にも触れている。鹿内信隆が長男の春雄の急死の後、女婿の宏明にトップの座を譲り、その宏明の専横を阻止するために、、フジテレビの社長、日枝久らが使った方法が、堀江の突撃を許す羽目になった。それはいかにも皮肉だが、まさ歴史は繰り返すで、その意味では具体的に「世襲と独裁」を追ったこの本が現在でも生きているのである。
私は「世襲と独裁」を防ぐことが企業活性化の条件だと思っている。「会社は誰のものか」と問われて、「株主のもの」と定義してしまったら、株主の独裁を防げない。「社会のもの」として、さまざまにチェックしていくことが何よりも企業を活性化させるのである。
『会社は誰のものか』
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