加藤のメモ的日記
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2010年10月28日(木) 死んだ親の年を数える

「死んだ子の年を数える」ということわざがある。あの子が生きていたら今頃何歳になっているだろうか、などと数えることで、未練を引きずったり、役に立たないことをすることを戒めることわざとされてきたものだ。ところが、最近「死んだ親の年を数える」ということわざが生まれつつあるようなニュースが連日のようにテレビで流されている。死んだ親の葬儀をしないで放置し、あたかも親が生きているかのように装って、その年金を受け取るという事件の数々である。

こういうニュースを受けて、石原東京都知事は「ひどい日本になったものだ」とインタビューに答えていた。親の葬儀をしないなどということは、今までの日本には考えられないことだというような趣旨の文脈での発言だったと思う。親を敬うことをせず、だから親を弔うこともできず、ひどい日本になってきている、というイメージの日本である。そこには日本人の道徳観やモラルの低下が見受けられうのではないかと。

都知事の発言を聞かれてそうだなと思われた人もたくさんおられたと思う。それでも私は、少し違う感想を持ったものだ。たしかに親の葬儀をしないで、生存を装って年金をだまし取るというのは、もってのほかである。ましてやミイラ化した遺体を押し入れに入れたまま何年も過ごしているなどということは、普通には想像もできないことである。激しい死臭もするであろうし、どうやってそんな醜悪な暮らしに耐えられたのだろうと、普通なら思う。だから、そんなことを平気でする日本人が現れてきたとは私には到底う思えない。

これらの「親の年金詐取事件」とも呼べる事件は、「ひどい事件」ではあるが、どこかで「やりきれない事件」でもあると私は感じている。こういう事件の背後には、たとえば都知事のように恵まれた家系に育った人たちにはわからない悲しみがあるのではないかと私は思う。都知事の父親は兵庫県の山下汽船に勤め、丁稚から重役となった人物である。

恵まれた家系の親がなくなれば「遺産」が子供たちに残される。例えば亡くなった俳優や歌手の場合であれば、映画や歌の「印税」が入ってくる。本人は亡くなっても、あたかも生きているかのようにして、子供に引き続き支払われてゆくものがある。ある意味ではそれらには、「死んだ親の年金」のようなところがある。

しかし、そういう恵まれた親や家計に生まれていない人たちは、そんな「死んだ親の年金」を受け取ることができない。だから実際に「死んだ親を死んでいないように見せかけて」その年金をもらい続けようとする者が出てくる。そういう事件の背後には、地域で支え合う共同性を失ってきた日本人が、「三世代」を支える仕組みを失い、個人を個人で支える「おひとりさま」を生きるようにしてきた問題があるはずである。

そんな中で、職がなく、生活費がなくなってゆけば自分で自分を支えることができないものだから、「死んだ親の年金」を当てにする発想をとろうという人たちも出てくる。たしかにその人たちの詐欺性や犯罪性やモラルの退化をあげつらうことは簡単だが、一方でそんなことをしなくても正当に、「遺産」という名の「死んだ親の年金」を受け取れる人もいることを思うと、その人たちへの批判だけではなく、やはり国を挙げてもっと底辺の貧困な人々を支える「三世代施策」を考えてゆかないといけないのではないかと私は思わないわけにはゆかない。


『潮』


加藤  |MAIL