加藤のメモ的日記
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日本で最悪の”村社会”は記者クラブだ
日本がアメリカより遅れていて、アメリカが絶対的に良いというつもりはない。むしろ日本はアメリカよりも優れている面が多々あるということを知ってもらいたいし、それをどうすれば生かしていけるのかを伝えたいとも思っている。
だが、ことメディアの問題については、日米間にははっきりとした優劣があると言わざるを得ない。日本のマスコミは「閉鎖的な村社会」であり「国際的な大都会」とも言えるアメリカとは違っている。要は閉鎖的とオープンの違いである。どちらが世界に通用するかは自明である。
日本ではどのメディアであれ、記者たちは入社一年目から記者として働き、似たり寄ったりのキャリア・パスを歩んで、出世コースを上がっていく。そして出世した連中が会社の方針を決め、はみ出し者の記者を許容しないようになっていく。その極致とも言えるのが「記者クラブ制度」である。
これは正真正銘の悪しき習慣・制度だと言える。記者クラブに加盟している社の記者以外は、取材会場にすら入れないという閉鎖的な制度だ。だからこの国の政治家のスキャンダルは雑誌メディアから発信される割合が非常に高い。記者クラブに加盟している者は、自分たちが取材を独占できるという”利権”を守るために権力者たちの顔色を窺ったような提灯記事を垂れ流す。
権力者から規制で守ってもらっている者たちが、健全な批判精神を持ったままでいられるわけがないだろう。現場の記者たちは、そういった環境が普通だと思ってしまっている。民主党は、政権を取る前こそ「記者クラブ解放」などといていたが、政権をとったら、一部の会見こそフリーランスのジャーナリストも入れるようにしているが、「解放」にはまだ遠いのが現状だ。
そして記者クラブに加盟している記者たちは、健全な自由競争がなく、自分たちの立場が脅かされないのをいいことに、官邸や省庁で発表される情報で記事を流すだけに終始する。もしくは政治家に張り付いてぶら下がりの取材ばかりして、内輪揉めに関する記事ばかりを作る。官邸や省庁の建物の中で、廊下に座り込んでパソコンを叩いている記者たちを見ると、コンビニの前に座り込んでいる職業不定のあんちゃんたちと何が違うのか全く分からない。
アメリカの大手メディアでは、「ニューヨーク・タイムズ一筋数十年のコラムニスト」や「一年目からずっとABCの記者としてキャリアを積んできたアンカーマン」という者にはまずお目にかかれない。ほとんどの記者は地方紙や地方局でスクープや質の高い報道で名をあげて、より大きなメディアにスカウトされていく。人材の流動性が高いから、自由競争の原理、実力主義が徹底されている。
もちろん記者クラブ制度のようなものはないから、自由闊達な議論や自浄作用も一程度ある。日本のサラリーマン・ジャーナリストたちとは全く異なる。そもそも「ジャーナル」とは「日誌」「日記」という意味で、「ジャーナリスト」には「その不暮らしの仕事」といった意味合いが含まれている。本来はサラリーマンとは対極にある仕事なのである。
それなのに各社横並びの報道をして、新聞休刊日まで歩調をそろえている日本の大手新聞社の仕事は、果たして「ジャーナリズム」と言えるだろうか。閉鎖的な記者クラブがある日本でのうのうと暮らしている記者がいる一方、世界では紛争の真っただ中に果敢に飛び込んでいくジャーナリストたちがいる。残念なことにそういった大切なジャーナリストの仲間が命を落としていくことは少なくない。
2010年の4月10にも、バンコクで治安部隊と反政府デモの間で起きた衝突を取材していたロイター通信日本支局のカメラマンが銃撃を受けて死亡した。世界では殉職するジャーナリストたちが後を絶たない。国際NPO「ジャーナリスト保護委員会」の調べによれば、09年に殉職したジャーナリストは71人であった。戦争取材はいつの死と隣り合わせだ。
そうした現場に身を投じている仲間と、日本の村社会に安住している人間が同じ「ジャーナリスト」という肩書で呼ばれていることには、いつも違和感を抱き続けている。ジャーナリズム以外のジャンルでも、すべてに通底しているのは、リスクを取って、自らアクションを起こすという行為は尊いものだということだ。閉鎖的な村社会に留まったままでいようとする日本のマスコミに一番欠けている姿勢だとも言える。
堕落したこの国のマスコミは、自分たちの身を守ることに汲々としてしまい、取材対象への健全な批判精神も、タブーにも踏み込もうという気概も感じられない。命をかけて取材をしているという記者が、どれほどいるだろうか。これは何も新聞・テレビだけの問題にとどまらない。日本という国が国際社会で生き残っていくためには、大メディアの意識改革が不可欠だ。
「村社会メンタリティー」に染まった国の民は、必然的に世界から孤立していくことになる。メディアの無知を、読者、視聴者が変えていかなければ、この国に待っているのは「没落」だけである
『無知との遭遇』
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