加藤のメモ的日記
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2010年08月29日(日) 憲法の条文は古文

9条で述べているのは、「善意の無い奴が日本を武力で攻めてきても、日本は戦いません」ということ。つまり、国家は国民の生命と財産を守らないと言っているのだ。これは国家としての責任放棄にほかならない。これに対して、11条と13条では「国民の生存権は尊重します」としている。果たして我が国はどちらを最優先するつもりなのだろうか。

日本国憲法の3本柱は「国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄」とされているが、そのうちの2つは両立できないのだ。この「二重人格憲法」という現実は、憲法そのものを根底から揺るがしているといえよう。対外的にも国内的にも時代遅れ。そして憲法違反がゴロゴロ―。事実上、この国の憲法は機能停止状態に陥っている。昨今、憲法改正論議がかまびすしいが、もはや改正や修正といった小手先のリフォームでは、憲法が抱える欠陥は修復不能だ。賞味期限切れの食材にどんな調理をしても食べられないのと同様、今の憲法をベースにした改正論議ではもはや今世紀の国際社会に対応することはできない。

憲法改正というといつも「9条」ばかりがクローズアップされるが、前述のとおり憲法の欠陥は9条に限ったものではなく、ありとあらゆる部分で表面化している。一か所ならまだしも、全体がヒビだらけの建物であれば壁を塗り直すのではなく、一度壊して建てなおすほうが効率的である。今、日本人に求められているのは、現在の状況にかなった憲法を日本人自身が作り上げる「創憲」であって、「護憲」や「改憲」といった現行の憲法をベースにした議論ではない。

半世紀以上前にアメリカ人が英語で書いた憲法ではなく、21世紀を生きる日本人が日本語で書いた憲法が必要とされているのだ。もちろん憲法をスクラップにして一から作り直すという作業は非常に難儀なものであることは言うまでもないが、それには何よりもまず、日本人は今の憲法が時代遅れであることをはっきりと認識しなくてはならない。そのために簡単にできることが一つある。

現在憲法について子供たちが最初に学ぶのは中学の「公民」の授業となっているが、現代社会を学ぶ「公民」ではなく、代わりに「古文」と「日本史」の教科書に「憲法」の章を載せることだ。第一、憲法の条文は「現代文」ではない。「学問の自由は、これを保証する」などという文章を国語のテストで書いたら、間違いなく零点だろう。

半世紀前、日本がアメリカの統治下に置かれていた時代の特殊な文章に、翻訳者たちはさぞかし苦労したことだろう。だから、分類としては「古文」になる。古文が苦手な子どもたちが多いと聞くが、きっと退屈な古文の授業が面白くなるはずだ。そして日本国憲法は「日本の歴史にはこういった憲法が必要だった時代もあったことを示す重要な資料」として、大切に保存されるべきだ。

その意味では、私は正真正銘の「護憲派」である。伊東博文らがつくった「大日本帝国憲法」は日本史の授業で必ず学ぶだろうが、その後に並べておくとよい。聖徳太子の「十七条憲法」、藤原不比等らの「大宝律令」などと並べて「日本の法律史」という学び方もいいだろう。いずれにせよ、こういった形で日本国憲法が時代遅れであるという論議が浸透すれば、後生大事に憲法を守れと主張することや、今の憲法をベースにして改憲することがいかにナンセンスであるかがわかるだろう。

日本国憲法あっての日本人なのか、日本人あっての日本国憲法なのか―。我々はこのことをもう一度よく考えるべきだ。そして12歳のメンタリティーで魑魅魍魎の国際社会を渡り歩こうという、甘く、傲慢な考えを猛省すべきだ。過去に与えられた憲法を抱えたまま国家ごと沈んでいくのか、それとも日本人の手で「創憲」された21世紀を生きる日本人のための憲法と共に歩んでいくのか。答えは一つしかないはずだ。



『国が死ぬ』


加藤  |MAIL