加藤のメモ的日記
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2010年08月11日(水) 心と身体

ロシア帝国のこれまでのいかなる犯罪も巧みなものいわぬ陰になくれて行なわれた。50万人のリトアニア人の強制移住、何十万というポーランド人の殺害、クリミア・タタール人の絶滅、これらすべてのことが写真という記録なしで記憶の中に残った。ということは何か実証不可能なものだから、遅かれ早かれでっちあげといわれる運命にある。それに反して1968年のチェコスロバキアの侵攻は全部が写真と映画に撮られ、全世界の記録保管所に保管されている。

チェコの写真家やカメラマンは彼らだけができる唯一のこと、すなわち遠い将来のために暴力の画像を失うまいとすることを意識した。テレザは丸7日というもの通りにいてロシアの兵隊と将校が評判を落とすようなあらゆる状況での姿を写真に収めた。ロシア人たちはどうしたらよいのかわからなかった。

誰かが彼らに向けて銃を撃ったり、石を投げたりしたらどのようにするかについては、正確に指示されていたが、誰かが彼らにカメラのレンズを向けたとき、何をしたらいいのかは何らの命令も与えられていなかった。

テレザはたくさんの写真を撮った。。そのうちの半分ほどは外国のジャーナリストにまだ現像されていないネガのまま無料で渡した。(国境はまだ開かれており、記者たちは国外からたとえ短い期間でもやってきて、そしてどんな記録であっても感謝した)そのうちの多くのものがさまざまな外国の新聞に掲載された、そこには戦車や威嚇のこぶしや破壊された家、血まみれの赤青白のチェコ国旗で覆われた死体があった。

フルスピードで戦車のまわりを走りまわり長い竿につけられた国旗を振りまわすバイクに乗った青年たち、それに可哀想なロシアの兵隊たちの感情を刺激する信じがたいほど短いスカートをはいていた若い女たちがいて、彼らの前で誰かれとなくあたりを通る人とキスをしていた。私がかっていったように、ロシアの侵入は単に悲劇であったばかりでなく、不思議な(そして、決して誰にももう説明できないような)幸福感に満ちた憎悪の祭典でもあった。


訳者あとがき

『存在の耐えられない軽さ』(1984年刊)の著者ミラン・クンデラは、1929年チェコスロバキアの中心都市ブルノ生まれの作家で、1960年代の後半、当時のチェコスロバキアで起こった、共産党による民主化と自由化の運動「プラハの春」を文化面から積極的に支えた一人である。この運動は、1968年の8月、ソビエト軍を中心とするワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアの占領によって終わり、その後ソ連共産党のブレジネフ書記長の傀儡フサーク大統領による、いわゆる「正常化」の時代が訪れることになる。この「正常化」の時代に数々の圧迫を受けたクンデラは1975年に結局出国を余儀なくされ、1979年にチェコスロバキア国籍のはく奪、81年フランスの市民権を得て、現在はパリを中心に広くヨーロッパで活躍している。


『存在の耐えられない軽さ』


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