加藤のメモ的日記
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2010年08月07日(土) ある女優の公開処刑

…そんな冬のある日、裕福なその男性は、ヒーターをつけっぱなしにして車庫に止めてあった車の中で彼女と睦み合った。烈しい愛の行為の末に満潮のように訪れた眠りは甘く深いものなのだろうか。死の匂いさえ感じられないほど。男は安らかに車の排気ガスを吸い続けていたのだ。

翌朝発見された時は、男性はすでにこと切れており、一方、義仁妃の強靭な生命力はまだこの世の空気を弱いながらも吸いこんでいたという。義仁妃もそのとき、男と一緒に命の綱を切り離してしまった方が幸福ではなかったろうか。いや、そうあるべきだったのだ。しかし彼女は生き残り、とどのつまり数千名の人々の前で、残酷の死を迎えることになったのだ。

義仁妃はテントの下で杭につながれ、銃を持った6人の兵士が定められた位置に一列に並んでいた。公開処刑で義仁妃を銃殺しようというのだ。一番前の列には有名な演出家である義仁妃の夫と映画大学に通う彼女の娘が座っていて。私はとても目をあけられていられれなかった。夫の今の心情は…。また私と同じぐらいの年にしか見えない娘の心情はどんなだろう…。

そして本人、義仁妃は一体どんな思いで立っているのか。目隠しをされているのがせめてもの救いだった。自分の死を見つめる数千の目、そして死のような静寂…。「背信者め!」指揮官らしき男が義仁妃に向かって、まるで烙印を押すかのように怒鳴ると、6人の兵士は一斉に銃を発射した。私はその瞬間をしっかりと見てしまった。目を閉じたかったが、まぶたが動かなかったのだ動かなかったのはまぶただけではなかった。山を揺るがすような銃声に心臓まで瞬間的に止まってしまったかのようだった。

6発の銃弾を浴びながらも義仁妃はすぐには倒れなかった。血しぶきが白いテントに跳ねて、鮮烈な絵を描いたが、まだ彼女は地に倒れなかった、すると、執行責任者が義仁妃に近寄り、頭に拳銃を押し当て、また3発発射した。ダン、ダン、ダン……。ついに義仁妃は地面に崩れ落ちた。

その後私はどのようにして劇団に戻ってきたのか分からないほどだった。戻る途中、車内には処刑の衝撃が残した静寂だけが陰鬱に流れていた。しかし私たちはすぐに公演をしなければならなかった。気が動転してどういう公演をしたのかまるで覚えていない私は公演の途中、恐怖のあまり泣き出したくなってしまった。

公演作品は社会主義革命の優越性を賛美する「ピパダ」(血の海)であった。いくら忘れようとしても義仁妃の顔が思い浮かんで仕方なかった。処刑場面を目撃したあと、私は何日も食事がのどを通らなかった。彼女の体から噴き出した鮮血が白いテントに飛び散る場面が頭に浮かんで離れなかったからだ。



『私は金正日の「踊り子」だった』


加藤  |MAIL