加藤のメモ的日記
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| 2010年06月13日(日) |
民意と国益 田中角栄 |
1972年(昭和47年)、ようやく中国と国交を正常化し、1978年は日中友好条約を結んだ。第二次世界大戦の相手国の中国と国交を回復したのが、田中角栄である。田中は交渉の中で、周恩来から、日本は戦後中国に対し何の挨拶も謝罪もなかった、というような批判を受けた。それに対し、田中は即座に「だから私は、こうして北京にやって来た。あなたが東京へ来られたのではない」と応じ友好を得られたという。中国では自分が相手のもとに出向くのが最大の敬意の表れである。
田中は新潟県の雪深い農村に生まれた。27歳で衆議院選挙に立候補したとき、この新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまおう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋に抜け越後に雪は降らなくなる。切り崩した土は日本海に持って行く。埋め立てて佐渡を陸続きにさせてしまおう」とユーモアを交えて、雪群の人々の人気を得た。
しかし田中の政治家としての真価は民意と国益のために公約を実行したことである。田中はそのために多くの法律をつくった、田中が直接、間接に作成した法律は100件以上、その数は現在でも国会議員随一である。例えば、輸送の要の道路を整備する財源をガソリン税で賄うようにした。現在のトラック運輸が全国的に発展しスムーズになったのはこのためである。
田中の国益による国づくりの構想は、首相就任後も実行された。その一つが冒頭の日中国交回復である。もうひとつが各省の役人を総動員して作成した政策論「日本列島改造論」の提案だった。
これによって経済成長期後の日本の長期ビジョンを持つ政治家として認められたのである。その政策とは「均衡のとれた国土開開発」と「過疎過密の同時解決」であり、そのために工業地帯の再配置、25万都市の建設、新幹線の高度情報・交通システム整備などが盛り込まれた。かっての政治家は、このような長期展望に立った国づくりの設計能力を持っていた。
この計画は日中国交回復のようにすぐには実現しなかったが、今日の日本のようすを見ると総田中角栄考えた構想のほとんどが実現していることに気付く。田中派後に金権政治家との批判を受けるが、国会議員や首相の評価は、政治上の業績になされるべきものである。
「三国峠」こそ残っているが、太平洋側と日本海側、北海道と九州を基幹道路・高度情報網で「陸続き」にしたことは、卓越した政治家の存在がいかに大切かを物語る。
また1987年には、毎日新聞の管信彦記者(当時)が、かって田中角栄元首相が、独自の資源ソースの確立を目指した資源外交を着々と展開したところ、これがメジャーズ(国際石油資本)を中心とする米国の資源のカサと衝突し、一部で「日本は米国の虎の尾を踏んだ」といわれ、田中元首相がロッキード事件に巻き込まれた遠因ともみられている」と書いている。
「毎日新聞」1996年には、中曽根康弘元首相が「田中君は、国産原油、日の丸原油を採ると言ってメジャーを刺激したんですね。そしてさらに彼はヨーロッパに行ったとき、イギリスの北海油田からも日本に入れるとか、ソ連のルムマンスクの天然ガスをどうするとか、そういう石油集取得外交をやった。それがアメリカの琴線に触れたのではないかと思います。世界を支配している石油メジャーの力は絶大ですからね。のちにキッシンジャーは「ロッキード事件は間違いだった」と密かにに私にいました」
ただし、アメリカが嫌ったのは、田中首相の独自のアジア外交だったとの見方もあるようだが。公明党元委員長の矢野絢也氏は「私の角栄論」において、田中首相の「一種のアジア中心主義」がアメリカに歓迎されなかったことを次のように示唆している。
「田中氏は将来、日本がアジアでどう位置づけられべきか、アジアの資源と消費者としての人口を視野においた一種のアジア中心主義が意識の底にあったと思う」東南アジア諸国連合へのアプローチも資源収奪などの批判から必ずしも歓迎されなかったが、この視野からも見直す必要がある。
『教科書が教えない歴史』
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