加藤のメモ的日記
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2010年05月18日(火) 将軍が死んだら

もし将軍が死去したら、正室や側室はどうなるのだろうか。正室も側室も共に髪を切って、院号になる。例えば五代将軍綱吉の生母、お玉の方は桂昌院、六代将軍家宣の側室、お喜世の方は月光院の院号を賜っている。正室である御台所は、次の将軍との関係で養母として大奥に残ることもあれば、西の丸に隠退することもあり、その進退は状況によって様々である。

しかし側室の場合は、次の将軍の生母でない限り大奥を出ていかねばならない。新しい住居は二の丸であったり、幕府の御用屋敷だったりする、例えば六代将軍家宣が死去した時には、御台所の燕子(天英院)と次期将軍の家継を出産した側室お喜世の方(月光院)はともに大奥に残って権勢を二分したが、ただの側室だったお須免の方(蓮浄院)は大奥を出て甲府藩の別邸に移っている。

いずれにしても、彼女たちは賜った将軍の位牌をそれぞれの部屋に置き、一生を死去した将軍を弔いながら過ごすのである。とはいえ、正室、側室共にほとんどの場合、20代、30代の若さである。一生幕府から扶持をもらって生活に不安はないというものの、家元に帰るわけもいかず、新たな男を見つけて再婚することもできないわけだから、客観的に女の一生としてどうなのかと考えると何とも理不尽でさ寂しい生涯と思わざるをえない。

従ってお琴の方の”逢引き事件”のようなことが起こっても不思議はないし、その心情に思い入れを持ってしまうという人も多いのではないだろうか。将軍に寵愛された側室は、例外を除いてほとんどの場合、将軍の死後は桜田門の御用屋敷に移った、現在の日比谷公園が、その桜田御用屋敷の跡地である。多い時には千人を超える娘たちが集まり、男子禁制の”女の園”として270年間も続いた大奥。様々な職制があり厳格な規律に守られた身分制度もあって、公家の娘もいれば旗本や御家人など武家の娘もいて、町人の娘や農家の娘もいたわけだが、彼女たちはなぜ大奥へ奉公したのだろうか。

もちろんそれぞれの境遇や身分の違いがあって一概には言い切れないが、御台所といえば三大将軍家光のとき以来、京の公家や天皇家から迎えるのが習わしとなって、その御台所に付き従って下向し、大奥に奉公することになる待女もいた。また将軍の側室になって将軍の子供を産むことを願ったり、側室になることができないまでも、大奥内での出世を望む女もいた。

たとえ器量に自身がなくても、有力な御年寄りに可愛がられれば、将軍のお手のつかない御中膳になって、やがて御客会釈からお年寄りへと出世することも可能だった。一方、そうした出世などは眼中になく、大奥奉公で得た給金を実家へ仕送りするためとか、行儀作法や教養を身につけてより良い縁談を得ようとする女たちも多かった。公家や旗本の娘が大奥に奉公すると「一生奉公」といって一生結婚することもなく大奥に務めなければならなかったが、又者である部屋方は、しばらく奉公してから自分の意思で自由に辞めることができた。従って花嫁修行のつもりで大奥奉公ができたわけである。

町人や農民の娘たちの多くはむしろ腰掛のつもりで気軽に奉公できる部屋方になることを望んでいたというのが本音かもしれない。部屋方の女中は宿下がりなどで外出する機会があったため、江戸市中の人の目にもつきやすく、何かと噂に上がったりもした。たとえほんのわずかの間しか奉公しなかったにしても、いったん務めてしまえば辞めた後は大きな顔で「御殿奉公をしてきた」と誰はばかることなく吹聴することができたのだ。

それほど、当時の若い娘にとっての大奥奉公は憧れであり、誇らしいものであったのだ。茶の湯や生け花、香合わせ、和歌、琴、踊りなどを通して、人間的にも成長する機会に溢れているのが大奥だったといってもいいかもしれない。従って、裕福な町人や豪農の娘は、何年間か大奥で女中奉公をして高等教育を身につけ、その上で良縁を得ようとしたのである。言葉は悪いが、当時の娘たちにとっての大奥奉公は「玉の輿」に乗るための、通過点だったと言えなくもない。


『大奥』


加藤  |MAIL