加藤のメモ的日記
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●田中角栄に見る官僚操作術 戦後、官僚組織に敢然と立ち向かった総理大臣といえば田中角栄をおいて他にない。官僚組織を上手に利用したと表現したほうがより正確だろう。田中は、吉田、池田、佐藤と繋がる官僚政治家が形成する保守本流内閣とは一線を画した首相として登場した。田中の前を務めた佐藤栄作は後継者に同じく官僚政治家の福田赳夫を構想していた。しかし派閥の力で上回る田中が首相の座を射止めた。だから余計に官僚の操作術を身につけておかなければ生き残ることはできないと考えていた節がある。
首相に上り詰めるまでに郵政大臣、通産大臣、大蔵大臣を歴任しているが、この間、将来局長、次官へと出世しそうな若手の有能官僚を徹底的に優遇している。常に相談相手として招き、大臣とは思えないほどの低調さで彼らのレクチャーを受けた。また、彼らの昇格にも尽力した。こうして田中は首相になる以前に郵政、通産、大蔵という3大省庁の官僚を自分の味方につけることに成功した。
そして1972年(昭和47)内閣総理大臣に就任する。ここで田中が取った手段はかって吉田茂が行なったように官僚を積極的に政治家に仕立て上げ、彼らを通して官僚機構を支配したことだ。当時警察庁長官だった後藤田正晴はその代表選手で、後に田中派の大番頭として辣腕をふるうことになる。また建設族を中心とした族議員を誕生させ、彼らを通して官庁との結びつきを深めることにも成功している。
この手法は派閥を超え大平、中曽根、竹下らに引き継がれた。その一方で政治家として官僚を抑えつける術も知っていた。腹心の後藤田を官僚の総元締め、内閣官房副長官に据えたのもその一つの現れだ。さらに困らせもした。「政治は力なり。力は数なり。数はカネなり」これは田中の言葉だが、カネを集めるため財界と結託。日本列島改造論と称したプランで様々な公共事業費を予算に組み込んだ。
その強引な手口はさすがに官僚をも慌てさせ、ついに「現行法ではその予算を法制化することは難しいです」と官僚に言わしめるほどたったという。ところが田中は平然と「それでは法律を変えればいいじゃないか」と言い放った。やがて金権スキャンダルでその座を追われたが、政界から引退しても金と数をバックに隠然たる影響力を保持し続け、その遺産は金丸信、竹下登引き継がれた。
しかし、官僚を上手に使いこなすという点では両人とも田中の足元にも及ばない。竹下は「日本の官僚機構は世界に冠たる組織だ。ただし縄張り争いがなければの話だが」と発言し、もっぱら政治家と官僚の間の調整役に徹した。
『日本官僚史』
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