加藤のメモ的日記
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| 2009年06月24日(水) |
御巣鷹山の日航機123便 |
「あれから何年たつのだろうか……」 そう。昭和60年(1985年)8月10日。群馬県の南西部に位置する「上の村」の御巣鷹山に、日航機が墜落し、何の覚悟も準備も出来ないまま、520の無辜なる魂が一瞬にして生命を奪われてから24年が経つ。「もう24年になるのか」漠然とした感慨が頭をよぎる。
●外国人犠牲者に見る宗教観の違い 8月18日、事故後6日目となると、面接による確認は皆無となった。もちろん五指のそろった完全遺体の収容もほとんどない。バラバラに分解した遺体を確認するのは非常に困難な作業である。まして、炭化や挫滅、挫砕の遺体が多い。手や足だけの難断遺体で指紋や足紋が利用できない状態では、性別や年齢、血液型、足のサイズなどが個人識別の頼にとなる。犠牲者が520名と多数の場合でも性別、年齢、血液型の別に整理すると、各組み合わせに入る該当者は少なくなる。
飛行機事故の場合、機体が分断、飛散するため搭乗者の座席位置によって遺体の収容地点が広範囲に違っているので、収容場所により年齢、性別から被害者を絞る有力な方法となる。このようにして指紋や歯形といった積極的な識別方法を利用できなくなった時点では、蓋然性を高める方法は消去法を用いていった。東京歯科大学の橋本正次は、「このような方法を用いたことについてオーストラリアで説明すると、参加者は怪訝な顔をして『なぜ手や足を識別しなければならないのか』と質問する。
そして『死んでいるということは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だからすべてをまとめて火葬にすればいいだけである』と言う」と、日本人的宗教観との大いなる相違点を強調する。―犠牲者の中に、二十代の韓国人女性がいた。両足と左手だけの難断遺体で、指紋と身体特長によって確認された。遺族に説明したら「間違いありません。ありがとうございました」と礼を言われた。「ご遺体はどのようにされますか」と訪ねると「娘は神様のところに召されて幸せです。肉体は一緒に亡くなった人と共にに、埋葬してください」と言う。事故から9日目の21日、医師とと警察官がようやくにして確認した遺体であった。何か残念な気もする。
8月28日、左腕の離断遺体を指輪から確認する。アメリカ人の男性であった。外務省を通じて、アメリカ大使館そして中米の日本大使館から遺族に連絡した。確認理由を話すと納得したが「遺体はそちらにお任せします」という返事が来た。「飛行機が落ちた場所に埋めていただいてもいいし、荼毘に付してもいいです」と。
28歳のイギリス人男性の完全遺体。8月19日に指紋、歯形、着衣で確認した。イギリスから父親が来て息子を確認。通訳を入れて確認調書を取った際、「息子は死んで神に召された。死んだことがわかったので、死体は持ち帰らなくてもいい」と言う。そして涙をボロボロとこぼしながら「日本の警察は親切だ。息子をこれほどまで大事に扱ってくれてうれしい」と何度も例を言って帰った。
この父親は宗教観の違いではなく、日本の警察の心に感謝してくれた。この事故での外国人犠牲者は22名であった。韓国人(キリスト教徒を除く)以外の外国人は、死と遺体の処理に関する考え方はほぼ共通している。橋本講師はこんなことも言った。「両親をアメリカの航空事故で失ったオーストラリア人の話を聞く機会があった。彼の話で印象に残ったのは、事故の連絡でアメリカに行き、ホテルに着くと航空会社の人が部屋に来てまず謝罪する。ここまでは当然のこととして聞いていたが、驚いたのはこのあとすぐに慰謝料の交渉に入ったというのである。そして、このオーストラリア人は何の抵抗もなく、提示内容を聞いたという。そこで彼に『遺体はどうしたのか』と訪ねると『現場に行き事故の状態を見たとき、誰も助からないだろうと判断し両親の死を認めた』と言い、遺体をそのままに、引き取ることもなく帰ったと言う。
なぜ遺体を引き取らなかったのか、と日本人的な感情も入ってつい、強い口調で訪ねると、デス、イズ、デス、つまり死は死である。もらっても生き返るわけではない。魂は神のもとへ召された、ということだった」と。私は橋本講師の話を聞いて、死に対する宗教観が日本人と外国人でこれほどまでに違うのかと大きな驚きを感じた。日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。いや、そうありたいと欲するのかもしれない。したがって死んだあとも完全な死体が必要になり、死体を生きた人間と同じように扱うことにもなる。
『墜落遺体』 飯塚 訓
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