加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will
| 2009年05月22日(金) |
『空白の桶狭間』 加藤 廣 |
桶狭間の合戦については、太田牛一が『信長公記』に書いて記述などをもとに、2万5000の兵を率いた今川義元に対して、その10分の1にも満たない兵力の織田信長軍が奇襲をかけ、気象条件などの偶然も見方にし、あっという間に勝利したというのが通説ですが、どうも話がうまくできすぎていると思っていました。歴史には勝者と敗者がいるわけですが、歴史上の出来事を公平に判断しようと思ったら、敗者側の資料を70%、勝者側の資料を30%の比重で見なければならない。そうして初めてイーブンな考え方ができるんです。
ところが桶狭間の合戦については、今川義元側の資料が何一つ残っていないんです。若いころは大の信長ファンで、いずれは信長を小説に書きたいと思っていたので、桶狭間についても機会があるごとに調べてきましたが、これほど徹底して一切の記述が出てこないのも珍しい。桶狭間以後、それまで今川の人質になっていた松平元康(後の徳川家康)が駿河を統治するようになりますが、おそらくその際に都合の悪い資料を処分してしまったのではないかと考えました。
そうなると、当然家康も一枚咬んでいるはずです。では家康に一枚咬ませたのは誰かといえば、木下藤吉朗(後の豊臣秀吉)しかいない。本書『空白の桶狭間』は、そこから推測して書いた小説です。秀吉の前半生はいまだに明らかにされていませんが、一介の百姓の息子があんなに城造りがうまかったり、軽々と馬に乗れたりするわけがない。彼は諸国を放浪する「山の民」の一員であり、その同胞たちの協力を得ることによって、桶狭間の奇襲作戦に成功したんだと考えました。
山の民は、藤原道長の兄、道隆を祖とし、その庶子の道宗が道長に追われて京から丹波に逃れたことに始まります。徳川幕府が士農工商の身分制度を敷いて以降は、その埒外に置かれる民と混同されるようになりましたが、もともと文化程度のきわめて高い異能集団で、成人になる前に数年間、集中的に教育を施すしきたりもありました。これまでの歴史小説では、桶狭間の合戦の際、秀吉は何も働いていない。じゃあ、そのときなにをしていたのか、ということについては誰も言う人がいない。
歴史は虚実入り乱れて伝えられていきますから、複眼的に捉えていくことが大切です。そういうことで言えば、僕が考える桶狭間は、こういう物語にしかなり得ないんです。
週刊現代 5月13日号
|