加藤のメモ的日記
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2009年05月21日(木) 城山三郎伝『筆に限りなし』 

―膨大な量の未発表資料の読み込みや、丹念な取材を積み重ねて到達した硬骨の文学者の”真髄”が放つ凄み

もちろん城山は愛妻家だった。しかし、それだけでは城山を語ってほしくない。『そうか、もう君ははいないのか』が、ベストセラーになり、城山夫妻をモデルとした物語がテレビドラマ化されて、「城山」と「愛妻家」が同義語となるような風潮に違和感をぬぐいきれないでいた私は、加藤のこの骨のある評伝に拍手喝采した。加藤は名古屋の郷土資料館「双葉館」に取材された城山の取材メモ(段ボール箱にして300個分はあったとか)の山と格闘し、作品に結実するまでの城山の思考を追って、厚みのある城山三郎像を彫り上げた。

「整理がまったくできない親父でした」と息子が語っているように、「軽いめまいを覚えた」ほど、それは未整理だった。しかし、その山に挑んだおかげで「女性の描写を苦手とするといわれてきた」城山が、若き日に女性を描いた習作を多く書き、「女性のさりげない振る舞いを観察することによって、感性を押し広げようとしていた」ことを発見する。ただ、城山は長男であり、親は室内装飾業の「杉屋」を継がせたかった。しかし母親がこう言ったように、それは不向きな性格だった。「うちの子は電話が鳴っても出やしない。商売のことは少しも考えていないのですよ」

とはいえ、軍隊生活をはさんで、名古屋商業から一橋大に進んで経済を学んだ城山は、それまでほとんどの作家が書かなかった題材をテーマに経済小説を書くようになる。それについて大学の先輩の伊東整は「きみが経済を知っているとは思わないけど、経済を勉強したために経済を怖がらない。そこがえらい違いだ」と言ったという。そして「あなたがこれから作家として続けてゆくには、いつも自分を少々無理な状態の中におくようにしなさい」と忠告した。それを踏まえて加藤は書く。

「城山三郎は『経済』を恐れていなかったが、『文学』を畏れていた」と。これこそが城山論のポイントだろう。この一句を書くために、この伝記は書かれたとさえ言ってもいい。私流に少し変化させれば、城山三郎は「経済」を恐れていなかったが、「人間」を畏れていた。それが後年の『落ち日燃ゆ』を初めとした傑作を書く素因となってゆく。しかし、よく誤解されるが、その視点は司馬遼太郎とは決定的に違っていた。加藤は、城山と私の対談『人間を読む旅』から城山の言葉を引く。

「世の中のことは全部わかっている、みたいにはかけないんだよ。神の目では書けない。誰かの中に入っていって、その人になってみたらこうだ、というぐらいには書けるけども……」そして私は加藤に、「神の目」で書く作家として、城山は司馬を挙げた、と打ち明けた。城山の生前はそれを秘密にしていたが、亡くなってからはいいだろうと断定したのである。

この評伝には、もう一つ驚くような城山の怒りが記してあった。「俺には国家というものが、最後のところで信じられない」と語っていた城山は勲章を拒否し通したが、長く続けた読書会「くれとす」の仲間がそれを受けた。「そんなものをもらって、うれしいのか」と城山は毒づき「汚ねぇぞ」「恥を知れよ」とまで言ったという。実に読みごたえのある評伝である。


評論家 佐高 信








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