加藤のメモ的日記
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2009年05月07日(木) ひどい精神病院

N病院の閉鎖病棟……。鍵の中に入ったとたん、顔をしかめて私は棒立ちになった。異臭がプーンと鼻をついた。吐き気が胸にムカーッとこみ上げる。ひどい悪臭と重くよどんだ空気の中に、百名近い患者がうようよとひしめいていた。内部は「人間倉庫」だった。百数十畳もあろうかと思われる仕切りも何もない大部屋。ささくれてどす黒くなった畳。板張りの廊下が走り、すべての窓にガッシリと赤錆びた鉄格子……。人の住むところではなかった。

私はその場に立ちすくんだまま、彼らを見た。両手で鉄格子をつかんで、空をぼんやり見ている人がいる。一人は鉄格子に自分の頭をぐりぐりとこすりつけていた。部屋の片隅に奇妙な人がいる。皆から背を向けて、彼は壁と向き合って正座し、彫像のように身じろぎもしない。多くの人は汚らしい格好をしていて、ダラーッと両足を投げ出し、壁にもたれてうつむいていた。

廊下には歩いている一団がいる。彼らは互いに言葉を交わすでもなく、それでいて一塊りになって、廊下の端から端までを往ったり来たり、ただきりもなく歩いているのだった。どの人も、どの人も、むっつりと黙っていた。彼らは一様に陰惨で暗く、凍りついたような顔をしていた。廊下に立ちすくむ人に「こんにちは」と声をかけてみた。すると彼はいきなりくるっと私から背を向けてしまい、なおも私が話しかけようとしたら、逃げるように向こうへさっと行ってしまった。とりつくしまがない。

ここにいるのは、私の知っている“狂人“、かってのてっちゃんやなみさんとはまるで違う“狂人“であった。私ははじめ、てっちゃんやなみさんにそこで会えると期待していた。だが、そこにいたのは彼らではなかった。彼らではなく彼らの生きた抜け殻だった。同じ病気の人がどうしてこんなに変わってしまうのだ、なぜだ?私は思わずつぶやいたが、その理由はここ、「精神病棟」という場の中にあるに違いなかった。てっちゃんやなみさんの場合と違い、私と彼らの間には、目に見えない“膜“がある。私はその“膜“の中に入っていけない。あるいは、“膜“の中に私は入れてもらえない。いうなれば、彼らが私を拒んでいる。これは、どうやらそういうことのようだった。

「タバコだよォ−ッ」一人の看護士が看護室から出てきて、いきなり大声で怒鳴った。彼のそばにあっという間に全員が集まってきて、廊下に一列に並んだ。彼らはもどかしげに足踏みをし、タバコを一本ずつもらうとすぐその場にしゃがみこんで、せかせかとタバコを吸った。誰一人口もきかず、指先が焦げるかと思えるほどにチビるまで。

「精神分裂病」という病を負った人たちは、本当につらい思いをしている。「分裂病」というラベルを張られただけで、もうその人は世間から色眼鏡で見られる。病気が治って普通の姿に戻っていても「あの人は気違い」なのである。病気は彼のほんの一部でしかないのに、世間の人は彼のすべてを「狂人」という言葉でしめくくって、バカにする。彼の全存在を否定してしまう。

発病の兆候は、多くは不眠から始まる。取りとめのない考えが頭に浮かび眠れぬ夜が続くうち、彼に幻覚や妄想が出てくる。「皆が自分の事を変な目で見る」「皆で俺の悪口を言っている」彼にはそのように思えてくる。そのうち「お前を殺す」という声まで聞こえてくるから彼はすっかり怯えてしまう。道行く人が自分を狙う暴力団に思えてくる“襲われる”不安のあまり、護身用に彼は刃物を懐にする。人とすれ違う。「いまだ、今襲われる!」「俺は刺される!」彼は錯覚し、瞬間、無我夢中で刃物を取り出して暴れだすのである。

これはまったく、彼の病気のなせる業なのだが、実際はここまで行ってしまうケースはごくごく稀だ。分裂病者何万人に一人あるかなしかなのだが、世間の人はそれが新聞紙上に出ると、分裂病患者は怖いものと思い込む。「とんでもないことを考えるやつだ」「こんなやつは鉄格子の中に閉じ込めておくに限る」となる。こんなわけで、一人の分裂病患者がことを起こすと、たとえそれが些細な事件であったにしても百人も千人もの病者が鍵の中に投げ込まれることになる。


『心病める人たち』石川信義


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