加藤のメモ的日記
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| 2009年04月06日(月) |
朝日新聞が報道しない中国のチベット侵略 |
チベットの惨状を伝える書物は多いが、ここでは『チベット女戦士アデ』に基づいて、チベット人の女性、アデの体験を紹介したい。本書は実際に監獄贈られた体験者の報告であり、伝聞ではなくそのほとんどが自身の体験である。中共の侵略以前の幸福な幼年時代、当初の中共の微笑戦略が書かれた後に、苛酷な支配の実態が赤裸々に記されている。
1955年、アデの住んでいたカンゼにおいて、中共は「宗教活動は社会にとって無益である」と発表し僧に「尼僧」との結婚を強要した。そして僧たちも農作業に従事することを強制された。農作業はその過程で殺生を行うことになるとの理由でチベットでは僧たちによる農作業は行われていなかったのである。文化に対する破壊であり、チベットの歴史性を無視する暴挙であった。
次いで1956年には、悪名高い「タムジン」が開かれた。「タムジン」とは人民裁判とも呼ぶべきシステムであり、民衆間に亀裂を生じさせることが中共の目的であった。子供が親を、使用人が雇い主を、僧侶が高僧を密告し、密告された人間は集まった住民の眼前で辱めを受けるというシステムである。家族を衆人環視の中で殴りつけ悪罵を浴びせる。それを拒めばその拒んだ当人がタムジンにかけられるのだ。社会の絆はずたずたに切り裂かれた。人々は密告の恐怖に常に怯える過度の人間不信の中での生活を強いられた。
また中共は、従来のチベット人の間で憎悪の感情が生まれるべく策動した。新たに幹部とされたかっての社会的弱者は、チベット人の弾圧に手を貸すこととなった。彼らは、真に自分たちが搾取されてきたと洗脳されたため、復讐の鬼となった。チベット人自身が中京の走狗となったのである。
妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦された。特に尊敬されている僧たちは狙い撃ちにされ、尼僧との性交を強いられた。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはその小屋でで連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩ききられ、「仏陀に腕を返したもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵とずともいうべき惨状が、ここかしこで繰り広げられたのである。こうした中で、ついにチベットの民衆が立ち上がった。カンパ族が中心となって、武装蜂起をしたのである。山中に潜み、好機をうかがいながらゲリラ戦を展開したのだった。
またチベットの首都ラサでも蜂起が起こった。中京がダライ・ラマを北京に呼びつけたのだが「護衛をつけるな」などという奇怪な条件がついていたのだ。ダライ・ラマを守るため、多くのラサ市民がダライ・ラマが住むノルブリンカ宮殿を取り囲んだ。ダライ・ラマはこの騒乱の最中にインドへの亡命を決断し、危機を脱したのだ。
こういったチベット人の蜂起に対して、中京は徹底した弾圧を持って応じた。残念ながら圧倒的軍事力の前に、彼らの勇気も空しく次々と戦士たちは戦場に倒れていった。アデは女性ながら決起した勇士を助けるべく、食料の調達、情報の提供を行った。だが、後に仲間が拷問に耐え切れず、アデの存在を当局に伝え彼女は逮捕されてしまう。彼女の苦闘はここから始まった。
監獄では自殺を防ぐために、ひも類がすべて取り上げられた。食料は乏しく洗濯などは一切許されていなかった。そこでは激しい拷問が行われた。取調べを受けているとき、蹴飛ばされ、ライフルの柄で体中を殴られた。また両手を頭の上に上げて、二つの木製の鋭い三角形の上にひざまづくように強要された。腕を下げると、ライフルの柄で殴られた。
……………………
第二次世界大戦が終了し、ナチス・ドイツの蛮行が明らかになったときその罪のあまりの重さに世界の人々は愕然とした。ナチス・ドイツはユダヤ人という一民族の根絶やしを計画し、最先端の科学技術を駆使しながら、殺略計画を粛々と実行していた。
罪なきユダヤ人がユダヤ人であるというだけで殺されていったのである。かっては科学技術の発展、進歩とともに人間の進歩が楽観的に信じられた時代もあったが、アウシュビッツの悲劇は人間という存在、あるいは近代性そのものに潜む野蛮を明らかにした。多くの人々が、アウシュビッツの悲劇を繰り返すまいと誓ったはずであった。
しかし悲劇はアウシュビッツを持って終焉を迎えたわけではなかった。中華人民共和国によるチベット侵略の歴史は、我々の同時代に行われた恥ずべき蛮行であり、その残酷さを極めた支配は、アウシュビッツの再来とも呼びうるほどのものであった。
『チベット大虐殺と朝日新聞』拓殖大学客員研究員 岩田 温
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