加藤のメモ的日記
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| 2009年02月19日(木) |
プルースト 「失われた時を求めて」 |
全部で七編からなる膨大な長編小説である。私もこれを全部は読んでいないのだが、読んでなくても十大小説に入れないわけにはいかないという、二十世紀文学の最高傑作なのだ。七編とりあえず並べてみよう。
第一篇『スワン家の方へ』 第二編『花咲く乙女たちのかげに』 第三篇『ゲルマンとの方』 第四編『ソドムとゴモラ』 第五編『囚われの女』 第六編『逃げ去る女』 第七編『見出された時』
プルーストはこの一大長編小説を思いつく前にいくつかの秀作を書いているのだが、それらはほとんど見る価値のないもので、価値のある部分はこの長編の中に吸収されている。つまり、プルーストは生涯かけてこの長編だけを書いた、と言ってもいいのであり、それは文学的な奇跡だと思えるほどだ。
簡単には要約しにくい物語である。こんな長いものを要約してもどうにもならない。しかし、シンプルにいえば、ある語り手によるその人生の記録である。幼いときに母に愛されたとか、こういうことが楽しかったとか、また逆に切なかった、というところから始まり、ゆっくりと成長していく。恋心が芽生えたり、同性愛にひかれたり、様々な人と付き合ったり、傷ついたりだ。
時の流れは記憶によってつながっている。しかしプルーストは、記憶していない記憶まで語ろうとする。それで有名なプチット・、マドレーヌのシーンが出てくるのだ。語り手はあるとき、プチット・マドレーヌという菓子を紅茶に浸して口にする。その瞬間に、言いようのない快感に全身を震わす。その菓子の味が、子供のときに叔母がくれた菓子の味につながっていて、失われていた記憶が一瞬のうちに甦ってきたのだ。
失われていた時間が、そのように取り戻せることを語り手は知る。それを頼りに、少年時代を語り始め、この物語が展開していく。貴族とも付き合い、ブルジョワとも付き合う人生である。運命的な出会いで女性に恋したり、その女性に去られたり。
そういう人生のバックに、フランス史がある。とても大きな全体小説でもあるのだ。古里の村の名はコンブレーだ。そして、散歩道が二つあって、ゲルマントの方とスワン家の方、と呼ばれている。スワン家はブルジョワで、ゲルマンと公爵は貴族だ、つまり二つの方向は絶対に交じり合わない二つの世界を象徴していて、語り手はその両方に関係していく。そして最後の第七編では、二つの家は婚姻で結ばれて、統合するのだ。
人生、つまり時の流れを語ってきた語り手は、文学に野望を持っている人物なのだが、才能がないのだろうかとも心配している。ところが、物語の終わりのほうで、また記憶していない記憶が甦る体験をして、この方法で書けばいいのだと天啓を得る。そして、書くことで私の人生は時間の中に存在することになるんだと、書こうと決めたところでこの大長編は終わる。
つまり、ラストシーンがこの小説の書き出しとつながるのだ。語り手が人生をそこまで達したことによって、この小説は生み出されたのである、という構造になるってこと。お見事!と言いたくなるようなエンディングである。言ってみれば、この長い長い小説には、この小説はなぜあるか、書いてあると言ってもいいのだ。
この十大小説に入れなかったジョイスの『ユリシーズ』(あまりにも前衛に行き過ぎてしまっている、と私は判定したのだ)と、プルーストの『失われた時を求めて』の二作が、二十世紀文学の到達点だと言われているのである。さて、二十一世紀の文学はどこまで行くのであろうか。
『早わかり世界の文学』バスティーシュ読書術 清水義範
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