加藤のメモ的日記
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2009年01月25日(日) ホーキング

あまり勉強していなかったホーキングだが、研究を続けようと決心する。大学院に行き、宇宙論を研究しよう。そこで、当時の宇宙論の権威、ケンブリッジ大学のホイル教授に問い合わせてみる。トップの成績で卒業できたら、受け入れよう。そういう返事が返ってきた。トップの成績をとる―何の問題もないはずだった。

ホーキングは自信に満ちていた。ところが土壇場になって急に自信がなくなる。最終試験の前夜眠れない夜を過ごす。その結果、試験で無様な答えをたくさん返してしまう。最終的な結果は、もう一人と肩を並べる成績だった。トップか二番か甲乙つけがたい。このような場合には学生をもう一度呼び、面談をする。その再試験のときには、ホーキングもすっかりいつもの自信を取り戻していた。

将来の計画について尋ねられると、こう切り返したという。「トップの成績を取れましたら、ケンブリッジに行きます。二番でしたら、このままオックスフォードにとどまるつもりです。ですから、トップの成績を頂きたいと思います。

パーマン教授のコメントが残っている。「教授たちはしっかりとした判断力を持ち合わせていました。その場にいたほとんどの教授よりも遥かに抜きんでた知性の持ち主、そういう人間と対峙している。みな、そう悟りました」結局トップの成績をおさめる。こうして1962年秋、ホーキングは20歳でケンブリッジ大学のトリニティーホールの門をたたく。

入学してみると、ケンブリッジ大学の大学院では、ホーキングももはや華やかな学部学生のままではいられなかった。ケンブリッジには科学界の本物のスターがきらびやかに並んでいた。科学の大いなる発見も頻繁に起こっている。ケンブリッジのキャペンディッシュ研究所では、クリックとワトソンがDNAの二重螺旋構造を発見している。二人はホーキングが到着して数週間後にノーベル生理学賞を受賞する

ホーキングはすぐに気がつく。応用数学・理論物理学科という小さな世界ですら、生き抜いていくのは容易ではない。一日に一時間の勉強、これではどうしようもなかった。数学の基礎がまったく欠けていることもすぐ明らかになる。

しかもホーキングの試練はこれだけではなかった。彼はオックスフォードでの最後の年、彼は階段から落ち、頭を打っていた。階段から落ちたのはこれが初めてではない。それどころか、靴の紐さえ結ぶのがつらいときがあった。

ケンブリッジでの最初の学期が終わって家に戻ると、病院に行くように父親に諭される。診断の結果は信じがたいものだった。悪夢としか言いようがない、しかも誰もが想像し得なかったような悪夢だった。筋萎縮性側索硬化症(ALS)―そう診断されたのである。

筋萎縮性側索硬化症とは筋肉が萎縮していく病気で、常に症状が進行していく。脳と脊髄の神経細胞に異常が見られるのである。ALSが進行すると、体を動かせなくなり、ついには口を開くことすらできなくなる。体は一種の植物状態に陥る。ただし頭の中は何も損なわれず、思考のほうは明晰なままである。

それでも、まわりの人間に自分の意思を伝達できなくなる。発病して、二年から三年で死が訪れるのが普通である。終末期には患者にモルヒネが投与される。迫りくる死の恐怖に怯える患者、慢性的な鬱状態に陥った患者にはそうするしかない。



『ホーキング』ポール・ストラーゾン


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