加藤のメモ的日記
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竜馬は、千葉道場に寝泊りして、再び北辰一刀流の稽古に励んだ。本当の目的は剣術修行などではないが、さしあたってはともかく大目録を目指した。一年間は瞬く間に過ぎてしまった。大目録までもう少しだからと、修行期間をもう一年延ばしたいと願い出て、竜馬はそのまま江戸にとどまった。
秋になって、鍛冶橋の土佐藩邸で御前試合が催され、いろいろな流派の剣士百人ばかりが集まって技を競った。この時の竜馬の相手は、神道無念流の錬兵館でも強豪の名が高い島田駒之助だった。
「島田の勝ちは決まったようなものだ。」みんなそう思っていた。神道無念流は力の剣法といわれ、猛烈な勢いで打ち込んでくる。達人の島田からこれをやられたらうまくかわすことは難しい。
ではどうするか。竜馬は「相打ち」を覚悟した。敵を倒し同時に自分も倒されるのが相打ちだ。襲ってくる敵を避けるのでなく、こちらから打ちかかって行くとき、打つ力と機敏さが相手に勝れば、先をとる希望がわずかに持てる。身を捨てるつもりで攻撃するのが相打ちの戦法である。
大上段に振りかぶって突進してくる島田に、竜馬もまたこれに向かって激突し全身の力を込めて打ち下ろした。竜馬の竹刀は見事に島田の面をとらえていた。まるで奇跡的ともいえる竜馬の勝利に、見物の人たちは思わず感嘆の声をもらした。
「土佐の坂本竜馬」の剣名が、たちまち江戸中に広まったのはいうまでもない。土佐藩の剣士として竜馬とともに知られたのは武市半平太である。半平太も江戸へ出ており、鏡心明智流の士学館で剣術を修行中だった。この御前試合のときは祖母が急病との知らせで帰国していたが、すでに一刀流の達人でもあった。半平太は士学館の塾頭を勤めるほどの剣士である。
鏡心明智流 武市半平太(土佐) 北辰一刀流 坂本竜馬 (土佐) 神道無念流 桂小五郎 (長州)→木戸孝光
揺れ動く中央政情の中で、やがて志士となって活躍するこの三人が、地方出身の剣士として名を知られ始めたころだった。1858年(安政5年)1月、竜馬は大目録を授けられ、念願の北辰一刀流の免許皆伝となった。
古川 薫『坂本竜馬』
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