江草 乗の言いたい放題
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2025年12月02日(火) 学力偏差値と行動偏差値        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan





 学力偏差値は模擬試験や定期試験などのペーパーテストで測ることができる。しかし、行動偏差値(これはオレが勝手に名付けているのだが)は測れない。ただ、オレの実感として偏差値70の生徒集団は行動偏差値も70くらいあるし、偏差値35の集団は行動偏差値も35くらいなのである。なぜこのような現象が起きるのだろうか。残念ながらオレは心理学や教育学の専門書をたくさん読んでいるわけではなく自分の経験からしか語れないのだが、私見を述べてみたい。

 学力偏差値70のクラスでは、授業開始のチャイムが鳴ると生徒は着席して教材を机の上に用意して待つ。休み時間のうちにトイレに行っている。そして教師が教室に到着するのを静かに待つ。もう休み時間ではないから静かに座ってるものだと理解している。

 ところが学力偏差値35のクラスでは。チャイムなど聞こえてない。教室は騒然としていて休み時間のままである。教師が教室に来てもまだ大声でしゃべっていて、注意されてはじめて着席する。もちろん授業の準備は出来ていない。ロッカーに教材を取りに行くために教室を出入りし、さらにトイレにも休み時間中に行けてないので、授業中に尿意があれば「先生、トイレ!」と挙手をする。犬や猫でもできているトイレトレーニングができていないのである。それが偏差値35という状況である。もちろん授業中も私語が多く、全く授業を聴かずに寝ている者や、スマホゲームをしている者もいる。数学の時間に英語の単語集を見ている者もいる。それで英語がデキるかというとそんなことは決していない。そういう生徒が単語集を見ているのは単なる自己満足であり、貧弱な集中力のせいで単語力も身についていない。それは「単語集閲覧」というオナニーをしているようなものである。このように学力偏差値と行動偏差値はたいていの学校では一致しているのである。

 両者に連動性があるということは、学力偏差値が下がれば行動偏差値も下がるし、行動偏差値を上げると自然に学力偏差値も上がるということが考えられる。オレはそう思ってこんなことを言ったことがある。

「頭の中味をいきなり偏差値70にはできないが、生活習慣を偏差値70にすることは今すぐにできる!」

 新しいクラスを受け持つときにオレはそのように宣言し、偏差値70の行動を目指すことを生徒に期待したのである。しかしそれはあっさり崩壊した。しょせん学力偏差値50の生徒は行動偏差値50の生活態度しかとれないのである。行動偏差値というものはその生徒の人格と密接に関わっていて、学力偏差値の方は実は人格とは無関係なのだ。だから人間としてはクソ野郎でも東大や京大に進める人間が存在するのである。学力偏差値と行動偏差値の間の相関性は強いが、100%の相関性があるわけではない。そして努力によって変えやすいのはむしろ学力偏差値であり、行動偏差値はその生徒の背負ってる人生そのものだから変えられないのである。

 中高一貫校の中には刑務所のように生徒の自由な行動を奪い、勉強に縛り付ける軍隊式の学校もある。こういう学校は無理矢理に行動偏差値を上げることで学習効果を上げようとする戦略である。それによって成功している学校もあれば失敗している学校もある。それはおそらく入学者の質の問題だろう。学力・行動偏差値ともに35という集団が入ってきてもその生徒を両者とも70にするのは不可能である。ところが両偏差値が60くらいの生徒が入学してくるのなら、70を目指すことは可能である。多くの中高一貫校を見ていてオレが感じるのは「入学する生徒のレベルによって結果が決まる」ということである。もちろん子を受験させる親の立場としては、偏差値35の馬鹿息子が偏差値70になって卒業してくれるという夢を描くわけだが、そんなストレスを与えると生徒は壊れる。そこは身の丈に合ったレベルを目指すしかないのである。

 学力という部分は工夫によって変えることが可能でも、人格というものは変わらない。だから就学前の子を持つ親はせめてその子がスタート時点で行動偏差値70になれるように、そしてその偏差値を維持できるように見守るべきなのである。

 DQNレベルの学校に行ってダメな人間になってしまうのは、そこにいる周囲の人間達の行動偏差値が低すぎるからであるし、ちゃんとした学校に行って立派な人になれるのは周囲の人たちの行動偏差値が高いからである。

 行動偏差値の低い馬鹿は社会的にも問題行動を起こす可能性が高い。薬物に手を出したり、犯罪に走ったり、タトゥーを入れたり、交通事故を起こしたりである。何も考えてない馬鹿というのは人生のすべての局面において危険なのである。タバコを道に投げ捨てるとか、盗撮や痴漢行為に走るとか、万引きや飲酒運転とか、政治資金を身内の企業に還流させるとか、そういう問題がある行動ができてしまうのはすべて行動偏差値が低いからである。

 かつての高度成長の頃の日本、昭和の日本というのは国民全体の行動偏差値のレベルが高かったような気がする。そして今の日本は国民全体の行動偏差値が下がってるのである。嘆かわしいことだがそれが事実なのだ。もちろんアジアにはもっと行動偏差値の低い国あるだろうし、逆に高い国もあるかも知れない。

 日本に世界に誇れるような治安の良さがあるとしたら、それは国民全体の行動偏差値の高さのおかげである。どうかそれが失われないようにとオレは願っている。ただでさえ国民の行動偏差値は下がる一方だからだ。オレは日本の将来を危惧するのである。立花孝史みたいなペテン師を支持する人が増え、政治家が「道義的責任が何かわかりません」とほざくような情けない国になってしまったことをオレは悲しんでいるのである。


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