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| 2003年10月06日(月) ■ |
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| 2003年7月25日のもうひとつの日記 |
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ここに載せる日記は、2003年7月25日付日記の最後まで書き切れなかったボツ作品(自分で“作品”というのはなんだかなあ)です。この日は、東山が夏の京都大会で負けた日でした。ちょっと自分に酔いすぎてるので、恥ずかしいのですが。
試合前夜、私が何をしていたかというと、以前つけていたスコアブックを眺めていた。2001年5月12日。その日は、鴨沂高校との練習試合だった。ダブルヘッターの第二試合、1年生が一挙9人も試合に出た。今は球場の電光掲示板で目にする名前が並んでいる。みんな、1年生だった。「この子らももうすぐ高校野球から卒業すんねんなあ」。そんなことを考えていた。ふと我に返って、「何してんねん、あかん、あかん」と何かを払い落とすように何度も首を振って、慌ててスコアブックをしまった。結果的に、これが私の感じた“敗戦の兆候”となってしまった。
まず、負け方からして、しゃあないなあと娘に甘い父親みたいな心境になってしまう。12本のヒットに、エラー2つもらって、取った点は1点。それも、併殺間に入ったもので。残塁数を数えるのが怖い…。こっちはエラー0で(エラーくさいのはいくつかあったけど。記録員、万歳)。ピッチャーはよかった。大会初、公式戦初先発の野村くんも、プレッシャーとかあっただろうに、よくしのいだと思う。終盤、木村くんに交代。でも、与四死球はやっぱり多かったな。4回戦、いや3回戦くらいからかな?攻撃のチグハグさや、離塁にちょっと気がかりな面はあった。やっぱり強豪にそれでは通用しない。それでもやっぱり愛おしい。私は結果を受け入れる。今日が終われば、明日が来る。シンプルに言えばそれだけのこと。
スタンドを出て階段を降ると、1人の父兄さんに声をかけられた。「今までありがとうございました」。私は、「おつかれさまでした」と返した。他になんて言えばいいのだろう。少しの沈黙のあと、「あの子たちは、地獄を見ているから…。そこからはい上がって、ここまで来たから。ただ、それだけで…」。父兄さんは涙が出そうになるのか、何度も目尻を拭いながら、話してくれた。
いつもお世話になっていた3年生の父兄さんに、「次の人、紹介しとくわ」とまだ面識のない2年生の父兄さんの元へ連れていかれた。「がんばります」「よろしくお願いします」。挨拶はぎこちない。いつもそうだ。滞りなく、「こんにちわ」を言えるようになったころ、夏が終わってしまう。
出待ちをしている間も、小さな挨拶を何度かした。黙礼だけで終わった人も、握手までした人もいた。「これからも東山を応援してあげてね」。この言葉を一番多く聞いた気がする。
選手が出てきた。「おつかれさん」「ようやった!」の言葉が大きな拍手の中に混じっていた。そのあと、監督が出てきて、「選手に挨拶させるんで」と言った。東山活動史上初のことだ。選手のいる場所までみんなで移動。
父兄さん、OB、ファン。多くのギャラリーの前に選手が整列し、高橋キャプテンが挨拶。
「ぼくたちのチームは不祥事があり、辛いこともあったけど、部員が辞めないで最後まで続けられてことがうれしかったです。3年生でベンチに入れないヤツもいたけど、みんな、応援してくれて…。試合には勝てませんでしたが、悔いはありません。今までありがとうございました」
本当に晴れやかな顔だった。
そのあと、集合写真の撮影が始まった。「はじけようけぇ」の声があがり、みんなざわめきはじめた。父兄さんのデジカメから、女子高生のカメラ付き携帯まで、選手たちには複数のレンズが向けれた。「こっち向いて」「こっち向いて」とあちこちから声があがる。被写体の選手たちは、「どこ見てええかわからん」「カメラ多すぎ〜」とか言いながらも、きっちりサービスポーズを決めた。一歩離れたところで、なんとも言えない優しい笑みをした監督が選手のそんな光景をじっと見守っていた。
ひとまずキリがつき、ギャラリーがカメラや携帯を片づけたころ、選手がまたパフォーマンスを始めていた。みんなで何か叫びながら、帽子を一斉に空に向かって放ったのだ。安っぽい青春ドラマみたいやなと思いながらも、白い雲をバックに舞った帽子の残像は脳裏にしっかり焼き付いてしまった。
なんで、こんなにあかるくて楽しいそうにしているんだろう。試合負けたのに。辛いことあったからこそ、「もう一度甲子園へ」の気持ちが強かったはずなのに…。
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