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| 2002年12月05日(木) ■ |
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| 自分の才能 |
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『自分の才能は人のために使うもの』。 その一文に、ハッとした。今、読んでいる瀬戸内寂聴氏の『痛快!仏教塾』の中の一文だ。
才能なんて何かの天才に付随する言葉であり、自分には関係ないと思っていた。自分にはこれと言った取り柄はない。でも、そう思うことすら自意識過剰であり、通知簿ではないけれど、自分の中で一番出来ることというものあるはずだ。どっかで聞いた唄ではないけれど、それを人と比べてどうこう言うから話がややこしくなる(でも、止められない)。
では、私の通知簿の中で一番数値が高い(マシ)なのは何だろうと考えたとき、やはり文章を書くことだと思う。前にも書いたが、私は“人のため”という言葉を信じていないため、当然、文章も自分のために書いている。
書きたいことが書けたら幸せだし、書きたいことが見つかれば嬉しくなる。人から反応が返ってきたら、生きてて良かったとすら思う。もちろん逆もある(今はその状態)。プロともなれば、それで食べていける。自分に利益がある。私はこういううわべのことしか見ていなかったので、才能はやっぱりその人本人のためにあると思っていた。 文の中からにじみ出ている瀬戸内氏の人柄に感化されたのかもしれないが、“人のため”ということを考えてみた。それは、私が文章を書くことで、あるいは私の文章を読むことで、誰かが何らかのプラス感情を持ってくれることなんじゃないかな。具体的に言うと、「私は私でいいんだ」と思ってもらえること。きっとそれは私も思いたいことなんだろう。今は野球関連を書いているが、この目的のためなら、いつでも鞍替えする。そういう心構えはある。
最近、私の注目はどんどん表舞台から遠ざかっていく。目に止まるにはたいがい、無名校の選手、試合に出れない選手、野球が続けられなかった選手…だ。今までは自分があまのじゃくだからかと思っていた。でも、それは違う。無名校の選手でも、皆が皆に惹かれる訳ではないし、試合に出れない選手をひとまとめに語る気はない。やっぱり、“彼だから”惹かれるのだ。果てしなく広いネット世界の片隅でささやくように彼らのことを書いている。“あなたには人を惹きつける才能があるんだよ”。行間にそういう思いを込めているつもりなのだけれど。
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